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2007年7月 9日 (月)

生糸は明治の大産業だった

昨日の富岡製糸工場のことを考えて、自分の中でいろいろつながってきたので書いてみます。

まず、養蚕農家ということですが、僕が小さいときに天井裏みたいな2階で飼っていたのを思い出しました。すっかり忘れていたのです。

あれ暖かくしておくのかなあ。

夜中にガサガサ桑を食べる音が怖かった。

顔が新幹線に似ているなあと思っていました(当時は100系しかなかった)

「オカイコさん」と呼んでいました。

峡東地区は果物や野菜のほかに桑畑も多くありました。

中道や豊富はもっと多かった。

そういえば豊富には「シルクの里公園」があってカイコの生態が見られます。

よく考えると残酷だよね。

1月15日の米倉の鉾衝神社で行われた「どんど焼き」には丸いお餅を竹に吊るして焼いていたけど、あれ繭のつもりだったんだろうな。

山梨は養蚕農家は多い県だったのでしょう。

全盛期は昭和初期から昭和40年代だそうです。

江戸時代から養蚕や織物は郡内を中心に盛んでした。

郡内では高級な「甲斐絹」が有名です。

「江戸前からの甲糸織りと言い、本繭4つ、5つを糸にして合わせて縦糸にし、横糸は本繭7つ糸にしたもので織ったのが糸織りという甲斐絹であった」

1940年代が最後の甲斐絹が織られました。

山梨は甲州三法の大小切税法があり米以外の養蚕、織物、煙草、林業などが盛んで貨幣経済が発達したのです。

その現金収入として養蚕や織物が盛んになったわけです。

藤村県令は、殖産興業政策で製糸産業や織物に力を入れました。

長坂町に日野原養蚕飼育場を設立し、富岡製糸工場のできた2年後の明治7年(1874)には甲府市錦町(中央2丁目)に県営の器械製糸場である山梨県勧業製糸場を設置しました。

「建物は東西35間(63m)、南北5間(9m)という大きさで、工事には1年半を費やし、200人繰りの製糸器械が並ぶ作業場から倉庫、食堂まで備えた近代的な大工場だったといわれています。規模的には官営の富岡製糸場(群馬県)に次ぐもので・・・」(山梨県立図書館HPより)

1874年(明治7年)には「道路開通告示」を発し横浜へ通じる道路整備を実施し、馬車通行可能にしました。

甲州財閥の若尾逸平や雨宮敬次郎は笹子峠と小仏峠を越えて横浜で生糸で儲けました。

最盛期の昭和43年には3万2千戸だったのが平成12年には90戸に激減しました。

ところで富岡製糸工場の払い下げで三井と片倉の間に原合名会社があります。

1902年(明治35年)から1939年(昭和14年)の37年間です。

横浜の生糸商の原富太郎です。

明治初期の横浜での生糸扱いの5家のひとつは原善三郎です。

善三郎の娘婿が富太郎です。

下仁田に近代的製糸工場を建設し、後に横浜の原財閥が大製糸家ともなる基礎を作ったそうです。

屋敷は今の野毛山公園や三渓園になっています。

富太郎の子が善一郎、良三郎です。

何はともあれ明治維新後の近代日本で輸出できるものはアメリカのストッキングのための絹とお茶でした。

外貨はこの2品目で稼ぐしかなかったのです。

 明治27(1894)年に「横浜蚕糸外四品取引所」として発足した横浜商品取引所は2006年4月東京穀物商品取引所に吸収されました。

横浜には絹に関する名勝が多く残っています。

僕の興味や知識が明治の絹でつながったのです。

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