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2007年7月15日 (日)

歴史に残る山梨の女性の反乱2つ

僕が小さい頃、テレビで「シボクサハハの会」がどうしたとかよく聞きました。

なんなんだろうシボクサって?

忍野村に関係する何か女性運動なんだろうとは思っていました。

忍野八海の忍野村。ファナックの本社がある。

自衛隊の北富士演習場返還を要求してきたのは「忍草(しぼくさ)入会組合」ですが、安保反対の国会請願デモに参加した後、1960年7月忍草地区の主婦320人が「母の会」を結成しました。演習場での座り込みをしたり、監視小屋から監視して,返還運動をつづけました。

沖縄のような基地反対であり反対運動です。成田の三里塚とならぶ農民反対運動と言われています。

ここは農民の所有する農地ではなく、共有財産としての入会地です。

この入会組合だけは条件闘争を拒否し、小屋を建て、おばあちゃんたちが一日も欠かさず立てこもるゲリラ闘争を続けあした。

闘いの歴史は古く、明治22(1889)年には御料林立入りが禁止されたましたが抵抗。大半を恩賜林として県に払い下げたことがありました。

昭和11(1936)年、ここは陸軍の演習場となり、戦後は米軍の演習場となりました。

1965年には北富士演習場梨ガ原着弾地への座り込みを強行しています。

忍草の長い闘いの成果もあって、昭和48(1973)年には日本に返還されることになりましたが、そのまま自衛隊の演習場となり、米軍との共同演習も行なわれるようになりました。

今でも闘っているのです。

最初は草の根運動でも共産党や社会党などの政治団体や労働組合や解放同盟などの団体の支援が始まります。

こうなると引くに引けません。運動自体が自己目的化して当初の理念や目的を超えた運動になりやすい。

それにしても、おばあちゃんたちの怒りは本当だったと思う。

でも何故、女性だけで結成したのだろうか?

そのほうが弱者を演じてアピールしやすいとふんだのだろうか?

それとも男は忙しいとかいろいろやりにくかったのでしょうか?

実際、安保闘争には組合として男女混合でデモに行っていますし。

もう一つ山梨の女性の反乱を。

日本で最初のストライキは、山梨の女性です。

1886年(明治19年)甲府の雨宮製糸工場で行われました。

100人余りの10代の女工の反乱です。

原因は、賃金の3割下げや、遅刻早退の大幅賃金差し引き、労働時間は、朝4時半出場、午後7時半退場(14時間半)への延長です。

甲府の製糸業者が協定を結んだようです。

加えて「長糞、長小便の禁」でキレたよう。

歌をうたいながら。

/うちが貧乏で12の時に 売られてきましたこの会
社 寄宿ながれて工場が焼けて 門番コレラで死ねばよい おはちひきよせ割飯な
がめ 米はないかと目に涙 工場は地獄よ主人が鬼で まわる運転火の車 機械女
工が人間ならば ちょうちょとんぼも鳥のうち/

近くの寺に立てこもって闘争に勝利しました。

この年は製糸女工のストライキがひん発したそうです。

ただし、この前年に某製糸工場でストライキが発生していますので最初ではないかもしれません。

それまではストライキではなく暴動が炭鉱でおきています。

近代化で資本家と労働者がくっきり分かれて搾取の構造が出てきたのでしょう。

山梨県勧業製糸場を設置したのが1874年ですから12年後のことです。

1890年戸主が家族を服従させる民法となり、女子は無能力者と規定されました。

さらに婦人の政治活動禁止法(「集会及政社法」)によりいっさいの活動が禁止されました。

それでも1892年には甲府太田町の矢島製糸でもストが敢行されました。

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