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2007年9月18日 (火)

信濃の小笠原とマナーの小笠原と小笠原諸島

武田信玄が攻め込む前の信濃の守護は小笠原氏でした。

武田軍は塩尻峠で小笠原長時を破りましたね。

ところで南アルプス市の市役所は小笠原(おがさはら)にあります。

北杜市明野町にも小笠原があります。

これは小笠原氏にゆかりの土地だからです。

小笠原氏は甲斐源氏の傍流ですが武田氏に劣らない全国に所領を持った大氏族でした。

鎌倉時代には流鏑馬の流派である小笠原流の宗家となりました。

鎌倉、室町時代には信州の守護となるほか全国に分派していきました。

武田に負けましたが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名になりました。

初代小笠原長清は甲斐源氏の加賀美氏始祖加賀美遠光(旧若草町)の次男として甲斐に生まれました。

なお、長男は秋山氏、三男は南部氏の祖となっています。

長清は父親と共に源平合戦に参加しました。

長清は、源頼朝など武将に弓馬術礼法の師範を代々つとめました。

後醍醐天皇の頃に現在の小笠原流の基礎をつくったとされています。

現在では礼法マナーの流派として有名です。

つまり、現在でも有名なマナー作法の小笠原流は山梨生まれなのですね。

ビックリでしょ。

では小笠原諸島とは関係あるのでしょうか?

1670年に遠州灘で遭難したミカン船が無人島に漂着しました。

それが母島です。その後、父島、むこ島を経て八丈島に着きました。

この報告を受け幕府は5年後に探検船を派遣しました。船頭は島谷市左衛門でした。

島々を探検し、鶏を放ち、野ヤシやコウモリを採取し、緯度を測って地図をつくり、天照大神などの祠をつくり看板を立ててきました。

これが国際法上有効となり、その後幕府は小笠原を放置していたにも関わらず後に日本の領土となりました。

ところが、この80年前に小笠原貞頼という武将がこの島を発見したという説が出ました。

その子孫である小笠原宮内貞任という者が1722年になって祖先が発見したもので渡りたいと願い出てきました。

奉行所に「巽無人島記」という写本を提出しました。

それには1593年信州深志の城主小笠原民部小輔貞頼が肥前の徳川家康から島があれば取らす旨の証文を下されたとのこと。

そして南海へ船出して3つの無人島を発見して報告し秀吉からの直筆の証文で「小笠原原島」と名づけ所領としたという。

渡航許可を得て出航しましたが失敗。再び願い出ました。

しかし、不審を抱いた奉行所が再度調べるといくつかの疑惑が発覚。

しかも貞任は松本の小笠原家とは全く関係なく古文書のニセモノと発覚しました。

この事件で無人島は「小笠原原島」と呼ばれることになりました。

ミカン船での発見は1727年にケンペルの「日本誌」でヨーロッパに紹介されました。

このときはブネシマ(無人島)とかブネの島と呼んだと書いてあります。

1785年林子平が書いた地理書「三国通覧図説」では本名小笠原原島であるけれど、世間で呼ばれている無人島と書いています。

1817年フランスのアベル・レミューザは機関誌に「ボニンシマ」(無人島)と呼ばれていると書き、その後そう呼ばれることになりました。

この小笠原の歴史に興味を持ったら、田中弘之著「幕末の小笠原」(中公新書)がたいへん面白い。

戦後、小笠原がアメリカから返還されましたが、よく考えると割りと簡単に返してくれたものだと思います。何せ、小笠原にはアメリカ他からの外国人がかなり入植していたからです。もっとも戦争中は日本国籍になっていましたけど。

だから、今でも小笠原には目の青い子孫が多くいるんです。

これで小笠原がつながったね。

巨人の小笠原、サッカー代表の小笠原、と聞いたらこの話思い出してね。

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