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2008年4月19日 (土)

渋沢家は何故お金持ちだったのか

渋沢栄一が水戸の徳川昭武(14歳)の随員としてパリに行きました。

26歳のときです。

その間、明治になって昭武の処遇が心配になりました。

そこで血洗島の父親に3人ほどが4~5年パリで生活できるようにお金を送るように手紙を出しました。

父の市郎右衛門(中ノ家)は二つ返事で引き受けました。

また、高崎城乗っ取りのクーデターを計画した際にも親の大金をくすねていますが発覚しません。

以前、生家を訪ねたとき家の大きさに驚きました。

何故、こんなにお大尽だったのでしょうか?

成功者たる栄一以後ならいざしらず、それ以前にどうやってお金を儲けたのでしょうか。

解説員が言うには藍玉が家業で、横浜の生糸で儲けたと聞きました。

でも栄一が小さいときに既に豪農だったことから、横浜だけでは急に儲けることはできないような気がします。

僕はその辺りが知りたいと思っていました。

佐野眞一著「渋沢家三代」(文春文庫)には一族のことが詳しい。

市郎右衛門(元助)で分家で本家は「東ノ家」です。

本家の初代渋沢宗助(宗安)は呉服屋を起しました。

二代目宗助(宗休)は村一番の藍玉と養蚕で地主となって隆盛させます。

苗字帯刀を許され岡部藩のスポンサーともなります。

三代目宗助(徳厚)は元助(栄一の父である市郎右衛門)の兄となります。

徳厚は東北にまで研究して養蚕技術を開発して「養蚕手引抄」という本も出しています。

この本で周辺の養蚕法は一変したといいます。

この時代が絶頂期となり人から大渋沢と呼ばれました。

三代目は弟と慶應元年(1865年)に横浜に進出し生糸を売り込んでいます。

横浜開港は安政6年(1859年)ですから6年後になります。

生糸商の三井八郎衛門の名義を借りたそうです。

栄一がパリへ行ったのはこの2年後ですから大儲けしたときです。

増水すると血洗島が島になる利根川が上州・武州の輸出用シルクを運ぶ大動脈で八王子経由の鎌倉街道が陸路のシルクロードでした。

三代目は水路と陸路を利用して横浜と往復しました。

横浜の野毛山を買い占め横浜屈指の資産家となりました。

書画俳句もやって文人との交流をした文化人でもありました。

栄一と仲が悪かった四代目と五代目の兄弟もひたすら金儲けをしました。

渋沢一族は栄一で考えがちですが、本家から栄一が出たに過ぎないのです。

大蔵省時代には家業であるとして富岡製糸場を任されました。初代工場長には以前クーデターを計画した尾高新五郎をたてました。

女工が集まらなかったので尾高は自分の娘を第一号としました。

やはり明治初期にとって養蚕業の影響は大きいと感じました。

栄一は一身四世に生きた男と呼ばれました。

江戸、明治、大正、昭和と。

でも、農家から武士になって、商業工業を興し、大学教員までやっているのもすごいですね。

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