いまでは日本で普通に歌われているラップ・ミュージック。
まだ、ほとんど知られていなかった頃から聞いていた者としては隔世の感があります。
さて時代を遡って、ラップを追ってみましょう。
まず、1981年のスネークマン・ショーの「咲坂と桃内のごきげんいかがワン・ツゥ・スリー」と山田邦子「邦子のかわい子ブリっ子~バスガイド編」が日本のラップの原型になりそうです。
1970年代の後半はディスコ・ブームがあって、イタリアの音楽プロデューサーのジョルジオ・モロダーが大活躍していました。
ミュンヘン・サウンドと呼ばれ、そのテンポはB.P.M.(beats per minute)で120とか140とかで統一されていました。
ドナ・サマー、アメリカン・ジゴロ(ブロンディ)、フラッシュ・ダンスなど小室哲哉にも大きな影響を与えていました。
でも僕が1981年に上京したとき六本木のディスコではメロディの無い曲が時々流れていて、「はあこれがラップというものかあ」と思いました。
その少し前にシュガーヒル・ギャングが最初のラップのアルバム「ラッパーズ・ディライト」(1980)を発表していますが、あんまり知りませんでした。70年代後半に結成されて最初にラジオでかかったラップと言われています。
高円寺の新星堂でグランド・マスター・フラッシュ・フューリアス・ファイブの「The Message」を購入しました。
たとえば、セックス・ピストルズやバウワウワウのマネージャーだったマルコム・マクラレンがソロで出した「俺がマルコムだ!」(“Duck Rock ”1983年)は白人が黒人のヒップホップや各地の民族音楽であるエスノ・ミュージックをパクって商業ベースに乗せようとした初期のものでした。
サンプリングというパクりが一般的になったのはこの頃じゃないでしょうか。川内康範が聞いたら卒倒しそうですが。
1982年にヒットしたファルコの「デア・コミッサー(秘密警察)」はドイツ語のラップでかなり早い時期でした。これは81年発表のアルバムでしたが82年に英語でアフター・ザ・ファイヤーが大ヒットさせました。
1986年には「ロック・ミー・アマデウス」でNo.1となっています。
1983年のハービー・ハンコックの「Rock it」はスクラッチが使われていました。
1984年にはアフリカ・バンバータとジェームス・ブラウンの「ユニティ」も大迫力でした。
少し遅れて1984年の映画「ブレイクダンス」“Breakin'”や「ワイルド・スタイル」がありました。
当時は「カフェバー」というおしゃれなカフェがタケノコのように増えていて、レーザーディスクで若者向けの店内に流される定番でした。
もちろん大人向けのスノッブなお店はブライアン・イーノなどの環境音楽でしたけど。
この中にはスクラッチやブレーク・ダンスといったヒップホップ文化が入っていました。
ただし、1982年の「フラッシュ・ダンス」にはブレイク・ダンスが挿入されていたので、こちらのほうが先でした。
84年には風見慎吾(現しんご)が「涙のテイクチャンス」という歌でニューヨーク仕込みのブレークダンスを「ベストテン」などで披露してお茶の間に定着させました。
風見はニューヨークのハドソン川沿いにあるバーなどに出没して勉強していたと語っていました。
風見は僕と同じ1962年生まれの同級です。
これがその後、オールナイトフジに出ていたRUSH、元気が出るテレビのダンス甲子園、ナインティナインの岡村隆、Club DADAのZOOなどに影響を与えています。
同じ年に、佐野元春の「VISITORS」にラップが入っていました。
1985年にはホットドッグプレスのいとうせいこうがラップを出した。いとうは最初のラッパーといっていい存在です。
吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」はラップと知らずラップがお茶の間に流れた最初と言えます。
サンプリングの話に飛びますが、ポール・ハードキャッスルの「19(ナインティーン)」というのを思い出しました。各国語のバージョンが作られて日本語は小林完吾氏でしたね。
1986年はRUN D.M.C.がヒットして、チャートやMTVなどロックの時代が終わってブラック・ミュージックの時代に変わってしまいました。
ロック好きの知り合いがニューヨークへ行って、「アディダス」で帰ってきたのにはたまげました。
今では信じられないかもしれないけど、1983年1月のマイケル・ジャクソンの「Billie Jean」までは黒人のクリップなどはMTVでは流されなかったのです。
それどころか、Billboardなどのヒット・チャートでもブラック・ミュージックは冷遇されていて、カール・カールトンの「She's a Bad Mama,Jama」などエアー・プレイは申し分ないのに上位に上がらないなど抗議もあったのを記憶しています。
ちなみに僕がロックとおさらばしたのは、ザ・スミスの解散した1987年です。
この頃になると、近田春夫、高木完と藤原ヒロシのTINNIE PUNXなど連日クラブでやっていました。
特に近田春夫はビブラトーンズを解散して「President BPM」という12インチを出しています。BPMはさっきのダンス・ミュージックのテンポのことです。
1987年のタカラ本みりんのCMで宮崎美子が歌った「だからDESIRE」はまだ知られていなかったラップをフューチャーしたもので、画面下に「ラップ よしこみやざき」とインポーズされ、お茶の間に「ラップ」というタームを知らしめたものとして歴史に残るものといえます。
ところで1988年にニューヨークへ初めて行った時は全てメロディの無いビートばかりでした。これはハウスとかガラージュというものだと知りました。「はあ、こういう時代なのね」と関心しました。
1988年前後にはパブリック・エナミー、ビースティ・ボーイズなどデフジャム系が来日して僕も行きましたね。でもまだ一般的とは言えませんでした。
1991年には河内屋菊水丸の「カーキン音頭」が大ヒットしましたが、流派『新聞詠み(しんもんよみ)』として日本版ラップに近いものといえましょう。
1994年のEAST END × YURIの「DA・YO・NE」は英語以外で最もヒットしたラップとしてギネスに載り、流行語大賞になり、紅白にも出場しました。
これで完璧に浸透したといえましょう。
ところで、ラップのルーツを探ると、黒人のゲットーではともかく非黒人のものを僕なりに思い出してみます。ファルコより前にないかと思い出すわけです。
1981年のブロンディのNo.1ヒット「Raptureラプチャー」(Autoamerican1980)は非黒人としては最も早いラップのヒット曲ではなかったでしょうか。
シュガーヒル・ギャングのアルバムとほぼ同時期というのは白人としてはかなり早かったと評価できます。しかも全米一位ですから。
このアルバムのプロデューサーはナックなどのマイク・チャップマンですが当初ジョルジオ・モロダーがやる予定でした。
これについては、だいぶ前NHKのBSの海外ドキュメンタリーものでラップ史を探る番組でもブロンディのインタビューがかなり使われていました。
この番組をもう一度観たい。誰か録画してない?
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