先日このブログで、西洋美術は感じるものではなくて読むものだという話題を書きました。
文化が違い、知識の乏しい日本人にとってそれをフォローする知識がどうしても必要ということです。
そうでないと、分かったようで分かっていない事態が起こり、楽しめないことになります。
もったいないことです。
そう考えると次は映画となります。
僕たちは本当に見ていたのか、分かっているのか、楽しんだのか、ということです。
エンターテーメントと割り切ってハリウッド映画に限ったとしてもです。
怖いのは分かった気になることですからかえって心配になります。
これについては少し前、ある人と映画について話していてそういった例がいくつか挙がりました。
たとえばクリント・イーストウッドの「ミリオンダラー・ベイビー」はアイリッシュ文化や滅び行くゲール語、カトリックについての知識がないとさっぱりわからない。
安倍晋三はこの映画を観てトンチンカンな感想を述べて何も分かっていないことを露呈して失笑をかっていましたね。
この分かりにくいアイルランドの民族性が象徴的なのは「逃亡者」なのだそうです。聖パトリック祭りの場面などその歴史を体言し暗示しているのです。主演にハリソン・フォードが選ばれたのはアイルランド系だからです。
だいたい名前を聞けばピンとこなければいけません。スカーレット・オハラ、フィッツジェラルド、オブライエン。
そういえばU2のアダムは1人だけカトリックでバンド内でうまく行っていなかったですよね。
ちょっと悪い友達に聞いたのは、「イージー・ライダー」に時々出てくる光はドラッグを意味していてそれがわからないと「何なんだろう?」ということになります。
評論家の蓮實重彦(元東大学長)もいいけど、そこまでいかなくてもね。
僕自身、いくつかの映画でよくわからないシーンが気になったことがあります。
こういう点に興味のある人は次の本を紹介しておきます。
八尋春海編「映画で学ぶアメリカ文化」スクリーンプレイ
奥村・バートン・板倉著「映画でわかるアメリカ文化入門」松柏社
岩本裕子著「スクリーンに投影されるアメリカ」メタブレーン
平均的な日本人にとってのトリビアは紹介してもしきれませんが、ひとつだけ紹介すると。
ロビン・ウィリアムズ主演の「いまを生きる」(1989年)という映画があったでしょう。
伝統校に着任したキーティングという教師と生徒の話で、詩の朗読が随所に出てきます。
大事件は起きませんが学園モノとも違ってちょっと風変わりな印象を持ちます。
この映画を日本人が観るとストーリーは十分追えるものの「なんなんだろう?」「何が問題なんだろう?」「何で詩を読んでんだろう?」と思うはずです。
「何が言いたいのだろう?」「何でこの映画をつくったのだろうか?」と疑問は続くはずです。
それで観終わって「ふーん。アメリカの金八先生かなあ。ちょっと違うな」とか、「まあ、教師と生徒、ヒューマニズムの映画だったなあ」と思うはずです。別に悪い映画とは思わないはずです。カネ返せとも言わないと思います。
この映画は人間観に自由主義を根底に、エマソン、ソロー、ホイットマンなど19世紀の超絶主義者の思想を反映しているのです。
この思想は20世紀になってもヘンリー・ミラー、スタインベック、ビート・ジェネレーションへと引き継がれていきます。
プリチャードの序文を破らせたりするのは個人主義の冒涜するもので、ソローの池は人間の魂を暗示していることを意味しています。
一人一人を机の上に立たせて、自分の目で見ろと説くのは、エマソン「自然」の冒頭から伝統という名の偏見で神や自然を見るのではないとしています。
校庭を3人で歩かせると次第に歩調が合ってくる場面は、設定の1959年という点がポイントで当時のマッカシーによる思想弾圧などに対して事なかれ主義の危険性を指摘したのです。エマソンなどの自己信頼の思想に通じます。キーティングに罪をきせる文書に署名させるのは赤狩りの背景があります。
まだ、ボブ・ディランもビートルズも反戦運動もヒッピーもなかった少し前の時代であることが重要なのです。
詩をみんなの前で発表させますが、それを批評したり点数をつけることはしません。自信を失っている生徒には精神療法とアレン・ギンズバーグに通ずる創作方法といえます。
「おお船長、我が船長」と呼ばせるのはホイットマンがリンカーンの死に際して作った詩でアメリカの民主主義からきています。自分の考えを表明して他人の意見も尊重することです。
つまり「いまを生きる」という日本人にとって分かったようで分からない映画は、19世紀からのアメリカにおける自由主義思想を反映させたもので、それを詩を通してフューチャーしていることになります。
自由主義思想、19世紀の詩、神と自然、伝統校、思想弾圧、アメリカの民主主義と個人主義、50年代と60年代の違い、といったバックグラウンドが無ければ、訳の分からない教師モノと思ってしまうでしょう。
こうした映画の背景を事前に知っておくべきか、後で知って「あーそうだったのかあ」と感心するほうがいいのかよくわかりません。
せめてパンフレットなどに解説しておいて欲しいとは思いますが、現状を見ると映画会社には無理だと思います。
サブカルチャー研究から「カルチュラル・スタディーズ」(カルスタ)のなかに映画を使ったものもあります。
本橋哲也「映画で入門 カルチュラル・スタディーズ」(大修館書店)
などありますが批判も強いものがあります。
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