今年も洞窟探検
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4月に強風のために断念した千葉の鋸山へ行くことにしました。
普通に行くのはつまんないので三浦半島経由で。
久里浜港から東京湾フェリーで行くことにしました。
京急で久里浜まで行き、バスで10分ほどでフェリー乗り場へ。
片道750円。車とか自転車も乗せられる。
空いているので快適。デッキに登ったり中でくつろいだり。
35分で浜金谷港へ到着。
このあいだの回転寿司屋へ。混んでいる。
アクアラインとかが上限1000円になったので土日は首都圏から結構来ているのでは。
800円になればもっとすごいと思う。
そうなると東京湾フェリーもなくなっちゃうかも。
ロープウェイまで歩いて乗った。
頂上を眺めて、日本寺の入口まで行って帰ってきました。
天気がもう少し良ければなあ。
山から切り出したのか石塀もある。
お店もあってむかしは栄えていたのか。
人は歩いていないけど。
雰囲気は沖縄の島に似ている。
時間があったので浜金谷から下り線で岩井まで行って戻りました。
内房は忘れがちだけどディープな気がする。
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本屋さんで話題の本を見ていたら、
川勝正幸著「丘の上のパンク -時代とデュエットする男、藤原ヒロシ半世紀」(小学館)と言う本が目についた。
パラパラ読むと、僕と同じ時代をほとんど同じ関心を持っていたことに気づく。
2つ違い。
間違いなく80年代以降の流行を駆け抜けた男と断言してもよい。
ところが今の僕と藤原ヒロシの違いに改めて驚く。
人間こうも違ってしまうのか、と。
これは一言で行動力の差だと思う。
だって周りに居る人がすごすぎるもん。
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関東の鉄道めぐりをやっていると、駅前と繁華街が遠いことがある。
特に古い街ほどそうです。
佐原、古河、佐倉、桐生、水戸、土浦、関内、野田・・・
どこも遠かった。
こういう現象の解釈として「鉄道忌避伝説」があります。
ここで言う伝説の定義とは、鉄道が敷き始められた明治期に、
「宿場や舟運が寂れるとして反対が起こりわざと遠くに駅をつくった」
「煤煙で桑や果樹が枯れると反対があった」
「若者が堕落すると保守的な長老たちが反対した」
つまり文明開化からそう年月も経っていない田舎の人は蒸気機関への無知から起こる反対運動があった。
その結果、鉄道が通ってその後繁栄した先見性がある街とそうでない衰退した街に分かれた。
このような伝承説のことです。
もちろん今でも道路や鉄道でも反対する人はいますが、ここでは無知とか遅れた保守的な考えという点がポイントです。
有名なのは中央線が中野から立川まで直線で甲州街道の調布や府中、青梅街道を通っていないこと。
東海道線が岡崎を通らず蒲郡を通ったのは誘致運動によるとか。
中央線の山梨でも塩山に大きく曲がっているのは雨宮敬次郎の実家の前を通ったとか一宮の桑畑のため反対運動があったとか。
全国にいろいろな話が残っていて、鉄道本にもそうした歴史が書いてあります。
青木栄一著「鉄道忌避伝説の謎」(吉川弘文館2006年)はこうした俗説、伝承、伝説はウソであることを丹念に解きます。
青木氏は地理学の理学博士で東京学芸大学の名誉教授です。
ルートの決定はほとんどの場合、高低差、川や山、など地形や地質の自然条件で決まっているとします。
当時の技術ではそうせざるを得なかったのです。
ではどうしてこういう説がまことしやかに浸透したのでしょうか。
著者はその原因まで探ります。
その原因は鉄道にうとい執筆者による曖昧な表現を含んだ地方誌があります。
この情報が伝聞や2次引用されて広がったことを指摘します。
それから1960年代以降に使われ始めた小学校の副読本によって子どもたちに正しい知識として広めたことを突き止めます。
僕たちの年代は「学校で習った」ことを信じているわけです。
甲府盆地で右に大きく曲がるのは25パーミル以内で抑えるためにはそういうルートしかないわけです。
もし左側の一宮の山沿いを下りる場合には大きな橋が必要です。
この辺は「日本鉄道史(中編 135~137)に説明があるとのことです。
他の検討ルートとしては谷村・吉田+御坂峠もありましたが長すぎました。
笹子峠を碓氷峠のようなアプト式ラックレールで越えて御坂を通るルートもありましたが採用されませんでした。
それから八王子から小仏ではなく、橋本経由の検討もありました。
結局、小仏と笹子に大トンネルをつくる案が採用されました。
笹子トンネルは清水トンネルができる1931年まで日本最長でした。
谷村の鉄道忌避伝説や塩山の雨宮迂回説、一宮桑畑説は事実ではないとします。
また、上野原駅が街中より下にあるのは河岸段丘のルート選択としてここしかないと説明しています。
これは佐倉や伊賀上野も同じ理由だそうです。
それにしても古い街が形成されている場合、その後に鉄道を敷くことになると当然街中を通すわけにはいきません。
買収やら補償を考えれば近くの田畑を通すのはあたりまえ。
ですから僕が体験した関東の古い街で駅や線路が遠いのは当然です。鉄道ができる前に完成していた街と鉄道が通ったことで街ができた赤羽のような街は違ってくるわけです。
鉄道という文明のインフラが来ること自体に反対はなく、ましてや新橋から数十年も経って無知からくる反対などあるはずがありません。
宿屋や舟運なども時代の運命とあきらめ、時間をかけて消えたと考えるのが普通でしょう。
もちろん反対運動が全くなかったと言っているわけではありません。
田圃の水路に影響したり橋や洪水などを理由にした反対運動はあったようです。
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乗り残しの旅は群馬か千葉か。
天気が悪くなって孤立したらどうしよう。
来る電車で決めた。群馬。
上州富岡は富岡製糸場へ行って以来。
その先、下仁田まで。
下仁田駅は思ったよりいい感じだった。
関東の駅百選らしい。
頭端式。
上信だけに。
そうすれば山梨へも行けたのにい。
駅前の商店街も古くて狭くていい感じだった。
ロケ中のヨネスケ師匠を発見しました。
高崎まで戻って上毛電鉄に行こうと思ったけど新前橋で乗り換えが大変ときいてあきらめました。
雨と雷で「さすが上州」と思っていたら、東京の電車は雷被害でもっとひどかった。
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やっぱりダメだ河口湖。
これまで河口湖町の町長とか区画整理問題とか開運の湯のヒドさを書きました。
河口湖の東側の河口湖温泉は富士山と湖を一緒に見える絶好のロケーションです。
僕も小さいとき富士五湖へのドライブというとここら辺に連れてきてもらったものです。
久しぶりに通ってみました。
河口湖大橋ができてから通った記憶は少ない。
県営駐車場があるので入ったら、座っていたきたない顔のオヤジが右へ行けと指図します。
てっきり駐車場の管理人かと思ったらそうではありません。
だって右も左も空きがあるし、後ろの車は左へ誘導されている。
オヤジ近づいてきて「スワンはどう?ボート」
断わって歩き始めると、次々に別のオヤジが声を掛けてきます。
にこやかさとかユーモアとかは全くなくカネだけが目的の顔をして。
コワイ。
今時、日本の観光地で昼間からこれほどあからさまな客引きは見たことありません。
恥ずかしい。
怖さで言えば富士山の馬引きに匹敵。
この人たちは何十年もこんな仕事をしているのだろうか。
一種の既得権益者として振る舞って、新規参入を排除し、カルテルを結んでいるのといっしょ。
腹立つのは県営駐車場でさも従業員のように振舞って業者間で数を調整していること。
県よ注意しろ。
しかも湖には原色と幼稚な形のスワンというボートがいっぱい浮かんでいる。
美しい眺望とか自然環境の全てをぶち壊してしまっている。
美意識とかセンスの欠片もない。
これじゃリピーターなんて来るわけないし、自分たちでそうしてしまっている。
一見さんからカネふんだくっているだけ。
こんなんじゃあ世界遺産に登録しないほうがいいくらい。
河口湖町は反対らしいけど、入らなくて結構。
原色のスワン並べていればいい。
これじゃ世界遺産に登録されるわけないし。
僕は2度と行きたくない。僕だけじゃないけどね。
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まず、西湖に向かう間に芦川村(現在は笛吹市)の鶯宿地区
の兜造りの建築群。

赤や銀のトタンに下に茅葺がある。
これが並んでいる。
一番いい写真ポジションがあるはずだけど、時間がないので次回にしたい。
まず、芦川を下って精進湖線に出たら上九一色村(現在の甲府市)です。
色もきれいでかっこいい。
これをつくった人はえらい。
しかも予想どおり周りには兜造りの家もたくさんあります。
芦川村に近いしね。
この上九一色はオウム事件の村として有名だけど細長い形だったので、こちらの半分は甲府市に編入されました。そしたら甲府市も細長くなってしまいました。
そういえば昔、大火があった記憶がある。
太宰治の「富士には月見草がよく似合う」の。
僕が小さいときはボロい建物で営業していなかったけど、今はきれいになってお団子も食べられる。

ここの旧トンネル御坂隧道も有形文化遺産。
次は勝沼(現在の甲州市)の旧田中銀行。
裏には立派な倉もある。
こんどゆっくり探検してみよう。
最後は、塩山(現在の甲 州市)の駅の北口にある塩山市中央区区民会館。
やはり藤村式の擬洋風建築物。
明治12年に建てられた千野学校(私立里仁実業学校)の校舎でした。
昭和23年にここに移転。その後は警察署、昭和33年から昭和57年まで図書館として、昭和利用されてきました。
跡地は公園風になっていて碑が立っていたけど、建物はここにあったのかあ。
もっと活用して欲しいなあ。
まちおこしの中心として。
でも耐震や耐火にしないと危ないかな。
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西湖でキャンプをしました。
テントではなくてパオという丸い木組みにテント地を巻いた家。
車で乗りつけられるので楽。
外にはテーブルとグリルがついています。雨も降りましたが大丈夫でした。
サイト内にはバーや本屋さん、コインランドリーとシャワー室、炊事場とトイレ、釣堀、ドックラン、売店もあるのですごく便利で安心。
子連れにには最適。
ニジマスを釣って焼いたら美味しかった。そのままにしてたら動物(ネコ?)に持っていかれた。
雨が降ってきて静かで涼しかった。
こういうのは久しぶり。
パオの天井は空と木が見える。
5時には起床してしまった。
また火を起こしてパンを焼いて食べたらこれまた美味しい。
日本にキャンプ場って忙しい、うるさい、きたない、不安・・・だけどここはよかった。
ちょっと高いけど、レンタル品も安いしスタッフも親切丁寧でした。
何泊かしたいね。
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北関東の旅も続いています。
いつも見かけるのはバルーンなんです。
ショッピングセンターとか特売とかの。
出かけるのが日曜なのでたくさん出てるのかなあ。
最近はあんまり見かけないと思っていました。
やっぱりあるんです。さすが車社会。
あれを目印に到達するわけか。本当かな。効果あんのかなあ。
東京都心はもちろんですが、神奈川、千葉方面にはあまりありません。
この前、舎人ライナーに乗ったら見ました。
やっぱりあっち側にはあるんだ。
どこか強い広告会社でもあるのだろうか。
あれを監視するアルバイトがあると聞いたことがあります。
時給が高いらしい。
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乗り残していた佐野線や小泉線といった人名みたいな路線がどうも気になる。
へたすると1時間待つ。
是が非でも制覇せねば。
久喜から館林へ行って3つのうちどれかに乗ろうと思いました。
それで佐野線で。
佐野市と佐野というまぎらわしい駅がある。
以前、JR佐野駅で乗り換えようと思って断念しました。
その先は・・・シラサギがいっぱい。黄色っぽいのもいる。
キジもいた。筑波の裏以来です。
葛生というのは石灰が出たのでそれを運ぶための路線でした。
地図を見るたびに山の中かと思ったら、全然違って平地でした。
佐野近くには茅葺屋根の家が見えました。そういえば両毛線の佐野~小山の間にも茅葺の家があったなあ。
館林周辺から佐野線沿線には大谷石でできた倉庫がたくさん見えます。農協の倉庫だったようです。

館林駅自体もなかなかいい。
館林は美智子様の正田家の発祥地なので正田醤油と日清製粉の古い建物も見える。
館林まで戻って、今度は東武小泉線へ。
この線は中原鉄道小泉線で東武が買収しました。
小泉は中島飛行機の工場があったところでこの路線は影響があります。
西小泉駅から仙石河岸駅までの貨物線である仙石河岸線(せんごくがしせん)がありましたが廃止されました。
新小泉駅と熊谷線(熊谷~妻沼)をつなぐ計画もありましたが、83年に熊谷線が廃止されました。
もう一つの不思議は東小泉~太田の路線名何かということです。どういう接続になっているのか行ってみないと良くわからない。
館林~西小泉が往復していて、東小泉~太田~赤城で運転しています。
西小泉から東小泉への乗り換えはスムーズでした。
太田・桐生線と呼ばれているようです。
それにしても太田というのは接続が悪い。
平気で1時間待つ。
館林から小泉線を経由したほうが早い場合もあるようです。
それで伊勢崎線は断念して帰ることにしました。
途中、福居駅(足利市)の隣には旧明治紡績(現トチセン)の赤レンガのノコギリ型の工場が目を惹きます。国の有形登録文化財だそうです。
1つ前の野州山辺駅には旧足利紡績工場の赤レンガ工場があるとのこと。
くやしいので途中、大師線と亀戸線も乗って帰ってきました。
それにしても、東武線はかなり混んでいました。半年前とは違っています。
これは明らかにガソリンの値上げの影響だと思います。
東武さんも太田の接続がもうちょっと良くなるように増便したらどう?
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漁船が遭難した事故。
よく考えると漁業って危険な職業ですよね。
第一次産業の中でも「狩猟」に近い。
改めてすごいと感じました。
イージス艦との衝突事故のときにも思いました。
やはり漁業に就くっていうのは生半可な気持ちじゃなれない。
では儲かるのか?
よくわからないけど、イカ漁船などが休漁したのを聞くとそうでもないか。燃料の高騰で。
でも全然儲からないのなら漁業をやる人はいなくなるはずなので、少しはいけるのか。
漁業に就きたい場合はなれるのでしょうか。
農業だとたまに支援とか就農とかやってますよね。
大きい農地は買えませんが、かなり貸してもらえそう。
船さえ買えれば漁業組合にはいれるのかなあ。
船は買えないけど、船に就職できないのか。
そうすると、工場派遣とかネットカフェ難民とかの人ってどうして農業とか漁業に行かないんだろう。
肉体労働はいやなのか。
いろいろ文句が多い割りに工場とかお店とかがいいのかなあ。
じゃ、どうしてサービス業とか就かないの?
居酒屋とかクラブとか風俗とかもあるよね。
ドライバーとかもできないの?
結局、選り好みしているとしか思えない。
それともコミュニケーション能力に欠けて接客もできないのか。
運転もできないの?
グッドウィルとかの廃業。
で、日雇い派遣すら仕事が無くなってしまう。
失業率アップ。
なんでもかんでもグッドウィルのせいにするのはいいけど、困る人は多いよね。
だって日雇いしかやりたくないんでしょ。
日雇いといっても昔から工事現場とか港湾労働者がたくさんいるわけだけど、その人たちだってちゃんと働いてちゃんと生きてほとんどの人は犯罪も起こさない。
簡易宿泊所にいっぱい泊まっている。
どうして今の工場派遣の人だけが可哀想で、どうしてネットカフェ難民は助けるのか。
差別じゃないの?
不思議だ。
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昨日は雨だったけど今日は晴れました。
南武線を経由して立川から青梅線へ。
奥多摩からどうしようかと案内所で聞いてみるとすぐに奥多摩湖行きのバスが出るらしい。
でかいコイが泳いでいる。
結構人がいた。バイクにはいい日だね。
お昼を食べて臨時バスで戻る。
それにしても青梅線からの景色は飽きない。
奥多摩方面に向かって左側が川なので、そっちに乗るといい。
帰りの青梅までは「四季彩」号という休日に走る一枚窓で対面座りの車両でした。
渓谷が良く見えました。
ときどき茅葺屋根の民家とか国道沿いには立派な家や古い商店なんか多くて面白い。
拝島から五日市線に乗って終点の武蔵五日市まで行ってみました。
考えてみると13年ぶりくらい。
青梅線に比べると同じ川沿いの路線だけど視界が開けている代わりに家は少ない気がする。
拝島からは西武拝島線と西武新宿線に乗って帰ってきました。
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旧東海道です。
京急の北品川からスタート。
少し歩くと運河に船がいっぱいあるところがあったので見て見ました。
遠くには天王洲か。
まるで佃島のようです。
道路自体はかなり整備されています。
街並み保存の運動も盛んのようです。
東海道より南側はきっと海だったんだろうという名残があります。
名前が付いていて、古い商店や看板建築を発見できる。
路地もあって興味深い。
月島あたりに似ている。
人住んでんのかなあみたいな。
火や地震がきたら一発だと思うけどよく残ったなあ。
もしかしてお寺の地所が大きくて、古い建物は借地なのかもしれない。
新馬場、青物横丁、鮫洲、立会川まで歩いてしまいました。
そのあと立会川を上って涙橋で写真を撮りました。
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東京から伸びる線路というものはたいてい放射状です。
横にある都市同士は近くても移動しにくくなります。
そうすると1回東京に出てきてから別の路線に乗り換える必要が出てきます。
一層、東京が混在します。
道路でも環状七号とか環状八号、外環自動車道とかがないと一度首都高までこないとなりません。
以前、横浜線、八高線、両毛線など大回りの電車に乗りました。
今日はそういう電車に乗ってきました。
まず大宮に行きました。
埼玉新都市交通伊奈線というのに乗りました。
ニューシャトルというので新しい路線だと思ったら、箱型の古めかしい車両が現れたので笑ってしまいました。
新幹線の高架の横を走ります。
移転した鉄道博物館は1つめです。
大宮に戻って東武野田線に乗りました。
岩槻で降りてみました。
南口に出ると東玉というお店のほか30軒ほどあります。
少し歩くと日光街道。
ちょうど端午の節句前ということで武者人形やこいのぼりを売っていました。
だいたい4万円くらい。
日光東照宮の工匠が桐細工のクズで作りはじめたのが起源らしい。
かみしも雛がたくさんあって、幕末頃から武州の養蚕農家では「お繭さま」と呼ばれたそうです。
次に野田に移動。
1つ前の愛宕で降りて本町通りを散歩してみました。
ここは醤油の街。キッコーマンの城下町です。
全国の34%のシェア。
けやき並木を歩くとレンガ蔵が続いて江戸川の土手に着きます。
ここから江戸に運ばれたのです。
周辺には舟運時代の河岸問屋の家や御用蔵もあります。
明治後期、舟運だけでは不便になったので醤油醸造業者からの訴えで野田市駅から柏までの貨物輸送のためにできたのが野田線です。
キッコーマンの内に駅もありました。
野田線は大宮~柏と柏~船橋に分かれて柏駅ではスイッチバック状に入る(乗り換えても戻ると感じる)ようになっています。
でもよく探すと古い老舗や建物が発見できます。
野田商誘銀行は醤油醸造家の機関銀行として1900年(明治33年)に設立されました。千葉銀行野田支店を経て千
秋社の社屋になっています。商誘って有りそうで無いと思うけど、もちろ
ん醤油からきています。
ロマネスク風ルネッサンスの興風会館(昭和4年)は
明治大学を設計した大森茂設計。国の有形登録文化財です。野田醤油の社会還元事業でした。
もちろんせんべいの臭いもあります。
前に外人さんの観光客が歩いていましたが、古い旅館に入っているのを見て「よく知っているなあ」と感心しました。
野田市駅まで戻るとキッコーマンの「もの知りしょうゆ館」
があったので見学しました。
密度の薄い配置ですが、帰りに醤油をもらいました。
野田市駅から船橋駅まで行って、武蔵野線でぐるっと戻って帰りました。
途中で越谷レイクタウン駅という新駅ができていました。
3月15日開業したようでイオンのモールがあってきれいに整備されたニュータウンのようです。
都市再生機構の治水対策と同時に行ったようです。
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昨日、山梨から帰る途中に高尾で京王線に乗り換えました。
するとすごい勢いで年配者集団が乗り込み席取りを始めました。10人くらい。
いや席取りではなく、グループ内の席取りと配置換えです。
電車内は空いているのです。
しかも奇声をあげ、何人かは明らかに酔っ払っています。
リュックからペットボトルがいくつか落ちる勢い。
「○○さんあっちに座りなさい」「こっちが空いている」という具合。そんなに騒がなくてもと思う。
ほうほうに逃げました。子供が押し倒されそうなので。
後ろから「ほら空いた空いた!」という声。はー。
その横には中学生くらいのクラブ活動風のグループ。
「るせーな」と年配者グループに聞こえるように言うので一触即発状態に。
緊張しました。
ウォーキングとかトレッキングとかを楽しむ年配の方々は多い。
勝沼ぶどう郷駅でリュック軍団を見た僕は、塩山駅まで戻ったくらいです。
集団心理なのかうるさい。
座ることに異常な執念があって、しかも仲良しで隣にならないと気がすまないらしい。
座ったと思ったら「あっちが空いている」とかせわしない。
直ぐにイカとかのおつまみをクチャクチャ食べ始めてプーンと臭う。
それを人に勧める。
「いーよ、いーよ」と一応断わるのが作法のようです。
ゲラゲラ笑う。女性は全員に聞こえるように話すのが特徴。
ホームでは「あなたはどういうルートで帰るのか」というような会話が主のよう。あまり込み入った話題はないようです。
それにしても何故、土日にリュックを背負うのか。
どうみてもリタイア・グループです。
だったら空いている平日に行ったらどうなのか。
考えてみた。
まあ、誰か1人でも働いていて土日では参加できないこともある。
(そもそもあまり親しい仲ではなく、合コンのような集まりなのかもしれない。)
平日にはいろいろ家事があるのかもしれないし。
土日には行楽地にイベントとかある場合も多いのかもしれない。
土日しかやっていないお店とか臨時交通もあって便利なのかも。
平日より人が多くて賑やかだったり、何かあった時寂れていると不安なのかもしれない。
もっと他に理由がありそう。
「行楽やレジャーは土日」という意識が組み込まれているのかもしれない。
「理由はわからないけど土日はワクワクする」みたいな。
つまり、最大の理由は、「平日に遊ぶと楽しめない」のだと思います。
平日の真昼間に遊んでいると罪悪感を感じる日本人は多いようです。
以前、海外で留学した人から、昼間の図書館で必ず会う3人の日本人の話を聞きました。
どうして日本人だけコピー機の前で忙しそうに作業をしているのか、と考えた。
やはり、他人が働いている昼間に忙しくやっていないとバチが当るとたるんでいる気がしてしまうらしい。
平日にしか行けない若い人にとっては悩ましい問題ではあります。
座れないし、うるさいし、イカの臭いに悩まされそうです。
年配の方は価格に敏感なので、やはり価格戦略で誘導する他ないと思います。
でも若い人の方がお金が無いご時世なので、ますます土日は年金受給者の奇声に包まれることでしょう。
やはり車で行くしかないか。
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春日居町の笛吹川沿いの土手が桃で真ッピンクというので眺めました。
万力公園近くに来るとカメラの放列。
「なんだろう?」と考えるとSLが走るのを思い出しました。
2時近くでしたがすぐ来る雰囲気。
写真を撮る。
すごい人。鉄ちゃんがカメラを持って走る走る。
サービスでかなり止まっている。手を振る乗務員。
SL見るのは真岡鉄道、秩父鉄道以来です。
でも迫力があった。汽笛と蒸気。
塩山方面に走ってゆきました。
その後も汽笛が盆地に響きました。
その後も何回か聞こえたので幻聴かと思ったら何度か往復するらしい。
笑えるのは、塩山駅発はSLが最後尾で引っ張られる形になること。
後で調べたら快速SL山梨桃源郷号だそうで4日ほど走ったそう。
4月1日には快速SL山梨号が走ったそうです。
これはJR東日本の山梨デスティネーションキャンペーン(4月から6月)のイベントで「週末は山梨にいます。」というものです。
興味があるのは塩山からSLはどうやってどこへ行ったのか。そうーっと夜移動しているのかなあ。突然、SLが走っていたら驚くよね。
D51は高崎~横川や釜石線、郡山~会津若松などを走っているそうです。
館山にもいたなあ。
その後、旧大和村にある大日影トンネルを見学に行きました。
このトンネルは1902年(明治35年)に貫通して翌年に開通して1997年(平成9年)に廃止されました。
平成17年にJR東日本から勝沼町に譲渡されました。
中央線で甲斐大和と勝沼ぶどう郷の間で一瞬青空が見えると思います。
それが新大日影トンネル(甲府寄り)と新深沢トンネル(新宿寄り)です。
通行料はありませんが15時までです。勝沼側まで約30分です。
下を見ると深沢川の河川隧道もあってこれも英国式レンガでできています。
観光案内所では試飲もできます。
近代産業遺産ですが、個人が利用できるのは珍しいですよね。
今度は勝沼ぶどう郷駅に回って反対側から覗いてみました。
こっちは現役の上りと下りの新大日影トンネルと旧トンネルが3つ並んでいて、電車が走るのが見れます。
やっぱり線路が切れているというのは変な光景です。
こちらの大久保沢の河川隧道もレンガ積みです。
途中には幕末の柏尾戦争の戦場で近藤勇の像などもあります。
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東武東上線で坂戸で東武越生線へ乗り換え。
越生までは菜の花が黄色くきれいですが、なんか人家の裏を通るような感じ。
駅前は予想より普通でした。いい感じで寂れています。
駅前食堂でラーメンを食す。メニューの模型が汚くておののく。お店の名前もない。
近くのお寺を訪ねたら、立派な桜が満開。なんか得した気分。
駅前のお菓子屋さんで地元の飴を買った。
おばあさんが一人でやっている。あとで中の写真を撮らせてもらえばよかったと思いました。
小川町は和紙の町だそうでウォーキングの年配の方が多い。人気なのか。
駅前はかつては賑やかだったようですが、いい感じで寂れています。
戻って東武線で寄居へいくことにしました。
寄居は南口を歩いて見ましたが、やはり寂れています。
いいぞいいぞと写真を撮る。
でも途中には桜が満開でよかった。
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梅田望夫著「ウェブ時代をゆく」(ちくま新書)の良いところは、新しい時代の生き方や仕事の仕方についての考え方を著者の体験を例にしながら書いていることでしょう。
生き方というのはメシの食い方で、仕事の仕方というのは職業や転職の選択のことです。
関心の高いテーマなのでこれまでもありましたが、英語やコンピュータがリテラシーだとか外でも通用する能力を身に付けろとかあたりまえの話が多かった。
生き方だと、定年退職後のどうするか、ベンチャーを起こせとかお金の使い方や精神論もありました。
前作の「ウェブ進化論」は2.0の話も多かったのですが、きっと読者の食いつきはこっちだったんじゃないかなあ。売れるのはこっちだし。
梅田さんは結局こういった文化人になろうとしている気もします。
羽生名人の「知の高速道路をみんなで走り抜けた先には大渋滞が待っている」論をさらに展開しています。
たしかに前作の中でも出色のエピソードでした。
さてその後はどうするという話ですが、大きく2つの道が考えられます。
1つは「高く険しい道」を歩むこと。
専門性の追求です。大学の教授や研究者のようなイメージでしょうか。ベンチャー企業家、大企業内エキスパート、ある分野の第一人者。
何千人とか何万人に1人しかいない。
もうひとつは高速道路を降りて専門性を活かしつつ個としての総合力で生きる方向。
こちらは道しるべも道も無いので「けもの道」という。
やる気とか好きなものがあればよろしい。
わりと自由な生き方もできる。なんでもあり。
創造性と1人で生きてゆくタフネスさが要求されるでしょう。
まあ、つっ走っていいよ。その時選べばいい。
ウェブ進化はこのけもの道への選択を容易にして個をエンパワーする。
日本の優等生はこのけもの道に行く想像力に欠けているそうです。
これまでの日本のエスタブリッシュメントは大企業経営者、官僚、マスコミ、大学教授であって、彼らは大組織から離れた体験を持っていない。
だからけもの道に行くと「路頭に迷う」「レールから外れる」のような錯覚を与える。
でも大組織に向いた人たちだけではないので、知のゴールデンエイジを迎えたウェブ時代はけもの道には素晴らしい環境となるかもしれない。
それから、宇宙航空工学を学んで博士号を取得した後、「古い職業」につくか「新しい職業」につくか悩んでいる友人にアドバイスすることを考えると自分がどちらの人間かがわかる話がありました。
古い職業は、大学教員、NASA、ボーイング等の大企業へ就職。
新しい職業はグーグルへの就職。
前者への就職が当然で断わるのはもったいないと思えば「古い職業」のタイプ、グーグルへ行くのが面白そうと思ったら新しい職業の人。
僕は新しい方だけど、アドバイスするのは古い方。だって、若くても古い人が多いんだもん。
僕は意識しなかったけどけもの道を歩いていることがわかりました。
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湯河原に行ってきました。
まず感じるのは、なんで湯河原っておばあさんがあんなにいるの?かってこと。
梅まつりの季節だったからかなあ。
梅のほうじゃなくて温泉の方に行くと足湯があると言うので行ってみました。
バスで15分くらい。2番乗り場から200円。
これが想像より意外でよかった。
「独歩の湯」という足湯です。300円。ロッカーあり。
いくつもお湯があって楽しめます。
周りに温泉や野天風呂が見えたりして今度来て見ようと思いました。
バス通りまで出る間に226事件の現場の旅館(光風荘)があったり、小京都風の宿があったりで散歩も楽しめます。
在住の細川護熙氏が陶芸をやっていると聞いていますが、陶芸のお店もたくさんあります。
元々そういう文化があったからなのか、細川氏の影響なのかわかりませんが。
小田原あたりのホームにはすごい数の撮り鉄の皆さんが待機してましたけでど寝台車でも撮っていたのかなあ?
ダイヤ改正の季節だし。
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日本銀行の見学に行ったときのパンフレットを読んでいたら甲州金の話が書いてありました。
東京大学人文社会系研究科の今村啓爾教授の発掘調査の内容がありました。
金貨のルーツは甲州金です。
戦国時代の軍資金です。
甲州金は一両が四分、一部が四朱でした。これは江戸幕府でも採用されることになります。
銀貨はありませんでした。
武田家の黄金伝説も多いのですが有名なのは黒川金山です。
金山の運営は「金山衆」で職能集団で武士であると同時に工作部隊でもありました。
黒川金山は塩山(現甲州市)にある鶏冠山の東にあります。
広大なテラス群、埋もれた坑口、粉砕用石臼などが残っていて「黒川千軒」と呼ばれる規模と保存の良さに魅せられたそうです。
今村先生は、この金山の鉱山史の重要性から1986年から発掘調査をしています。
1530年には始まり16世紀末には衰退して、17世紀中ごろに消滅したようです。
つまり武田信玄の時代になります。島根の石見銀山も同じ頃です。
江戸時代には産出しなかったようです。
最大時1000人近くが住んでいたようです。
遊女もいたという話で近くに「おいらん淵」(銚子滝)という場所もあります。
金堀りたちは土木工事の請負業となって猿橋の架け替えなどもやったようです。
金山衆は全国の鉱山に散らばったほか、一部は一之瀬などに移り住んだとも言われています。
甲州の技術は他の鉱山に伝わり、他にも常陸の用水工事などの技術として水田技術にも応用されています。
1997年に黒川金山遺跡研究会「甲斐黒川金山」(塩山市)に報告され、国の史跡にも指定されることになりました。
参考は、今村啓爾著「戦国金山伝説を掘る」(平凡社)。
そのうち、世界遺産に登録できるか見に行ってきます。
なお、下部町(現身延町)には湯之奥金山博物館があって砂金掘り体験ができます。
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烏山線に乗ってきました。
宇都宮の2つ先に宝積寺(ほうしゃくじえき)という駅があって、ここから7つの駅があるJRの赤字ローカル線です。
宝積寺横に大谷石で作ったと思われる倉庫(JA)がソバ屋などになっているのが気になった。
非電化で単線。八高線や久留里線を思い出す。
7つの駅、7つの車両に各七福神のキャラクターが描かれています。
駅は小さく大金駅が一番大きかった。タブレットの交換はここ。
正直何も無い。
終点の烏山駅周辺は商店街のようになっていますが死んでいます。上総一ノ宮以来の静けさ。
バスの車庫があるんだけどバス停の標識がいっぱい置いてあった。
なんでこんなところに線路を、といつものように考える。
烏山藩は一時期烏山県になったのですが、すぐに宇都宮県に編入されました。
案内版を見ると茂木まで16km。あー真岡鉄道の終点に近いんだ。
北の遠くに雪山が連なっています。左側にあるのはかなり急な山。福島県にも近いんだなあ。
宇都宮駅までの電車もある。今日はやたら乗り継ぎが良く待つことがなかった。
宇都宮駅で餃子を買って湘南新宿ラインに飛び乗った。
中国製ではなかった。
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JRのディーゼルです。
雰囲気は小湊鉄道に近いものあり。駅舎も。
春や夏に来ればもうすこし自然を楽しむこともできるのでしょうけど、冬は何もありません。
どうやって食べているのでしょうか。
心配になってきます。まあローカル線ではいつも思うことですが。 
どうしてこんなところに鉄道を敷いたのか。しかも中途半端で終わらせて。
きっとニーズがあって鉄道というよりも鉄道を引けばニーズが出るのではと、考えたとしか思えません。
本末転倒。
終点の上総亀山では1時間待ちなので一旦降りるしかありません。
「きょん」というシカに似た動物が繁殖してしまってイチゴを食べて困っているというニュースがあったので目を凝らしましたがいませんでした。
黒っぽいお湯でしばし浸かる。
蘇我あたりはすごい寒い。今夜から雪らしいからな。
でも東京に帰ってきたらそうでもなかった。
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正月休みとアメリカで長期不在になりました。
溜っていた新聞を読むのが大変。
正月は特に厚いので時間がかかる。
やっと終わった。
読まないと気持ち悪いし。
だから土曜日とか朝から外出するのもイヤ。
お正月は年賀状のチェックなどもあって大変。
ブログも始めたので遡って書くこともあって、さらに大変になりました。
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フレンチクオーターの観光では徒歩で十分です。
市電とバスが走っています。
市電は3つあります。1ドル25セントでおつりがありません。
リバーフロント・ストリートカーは川沿いを走る赤い市電で8つの駅があります。キャナル・ストリートカーに乗り入れています。
しかも大きい汽笛を鳴らしながら。最初は何ごとかと思いました。
キャナル・ストリートカーは湖と川を結ぶキャナル通りを走る路線です。最後に公園か墓場に行く路線に分かれます。
カトリーナの被害地域の方に行くときはこの路線になります。
セントチャールズ・ストリートカーはキャナル通りとバーボン通りの交差する辺りからミシシッピ川の上流(西側)へ向かう路線です。
チンチン電車です。1835年営業開始で現役最古の市電と言われています。観光客にも人気があります。
カーストップという黄色い縦長の看板が2ブロックごとに立っているので、そこで待ちます。
キャナル通りから10分も乗るとコロニアル調の高級住宅街が続きます。
30分くらいでリバーベンドという学生街に行けます。チューレン大学やロヨヲ大学があります。
僕も乗らないといけないと思いました。でもフットボール観戦の観光客が多すぎて乗れません。
バーボン通りから少し戻って乗りました。
20分ほど走って、帰る電車が平行して走っているのを確認して降りて、逆側で待ちました。
10分ほどで来るかと思ったら全然来ません。
暗くなってしまいました。約束の時間もせまっています。
だんだんあせってきました。
タクシーをひろうこともできません。
その後も待って、結局来たのは1時間後。
約束にいけず。
はー。
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ニューオーリンズはカレッジフットボールのファイナルがあって大盛り上がりでした。
街中がファンでいっぱいです。そこらじゅうで気勢を上げていました。
LSU(ルイジアナ州立大学) VS オハイオ州立大学 のようです。
日本でいうと高校野球の決勝戦の甲子園周辺という感じかな。
ちょっと違うな。日本シリーズレベルかな。
LSUはタイガースでかなりの強豪です。野球も強い。
オハイオも巨大な総合州立大学です。こちらの愛称はバックアイズ(とちのき)です。
1月1日にはシュガーボウルというカレッジ・フットボールの試合があってルイジアナ・スーパードームで行われます。
原色のトレーナーを着た年配の方々が多く、陽気にビールを飲んだり雄叫びをあげたりしている。
センスがいいようには思えない。いかにも中部や南部の人で主に白人である。
でも僕はだまされない。
なぜかと言うと、この旅行中に読んでいた本は、
ハロラン芙美子著「アメリカ精神の源」(中公新書)だからです。
「日常生活ではあきれるほど単純浅薄な人が、思いがけない信仰の深さを持っていることもある。それに気がつかなければその人のそばを通り過ぎてゆくだけである。」(p.293)
なんていう文章を読んでいると、この軽薄さや陽気さの裏に日本人では窺い知れない精神を持ち合わせていると裏読みしてしまう。
ところでこの本を読んで「ン?」と思ったのは、「アメリカの国歌は『星条旗よ永遠なれ』だが、その歌詞は・・・」(p.307)というところ。
「星条旗よ永遠なれ」は国歌じゃないよなあ、と。
これは良く間違える人が多い。
アメリカ国歌は「星条旗The Star-Spangled Banner」で「星条旗よ永遠なれStars and Stripes Forever」は公式の行進曲に過ぎません。
この間違いはジミ・ヘンドリックスによる有名な演奏が影響していると思う。
1969年8月のウッドストック
ジミヘンが演奏したのは国歌「星条旗」なのに解説などには「星条旗よ永遠なれ」になっているのです。
つまり、アメリカ国歌として「星条旗よ永遠なれ」の曲が思い浮かぶのは正しいのですが、その曲名は「星条旗」なのです。
「星条旗よ永遠なれ」という曲は運動会でかかるやつです。
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アイオワの民主党党員集会で予想に反してオバマ氏が勝利しました。
アイオワに注目が集まるのは1976年のカーターの勝利(カーターって誰?)だからだと思う。
リベラルと保守の分裂を統合する考えやイラク戦争に一貫して反対しています。
こちらのテレビでも大統領選の討論などが流れています。
オバマ氏は演説がうまい。
「変革」と「希望」で若者にアピールしているようです。
どちらにしても、共和党の話題はほとんどなくて、民主党で勝ったほうが大統領になるというのは暗黙の了解みたい。
もしクリントンが勝ったらパパブッシュ4年、不適切なクリントン8年、子ブッシュ8年、ヒラリー4年となって、なんと1988年から24年間に渡って2ファミリーで大統領職を牛耳られることになってしまいます。それはいくらなんでも「変化」にはならないよねえ。
次はニューハンプシャー。2月5日はスーパーチューズデイ。
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いい天気でした。
小さい頃見た覚えがあります。
博徒なんだからヤクザなんでしょうけど傭兵というか政治活動家って感じなんですね。
清水の次郎長の敵役の印象が強いのですけど再評価も必要なのかもしれない。
幕末の混乱の中で風のような人だったのでしょう。
TBS「風のなかのあいつ」(1973年)では、勝蔵がショーケン、ども安が長門裕之、次郎長が米倉斉加年でした。(渡辺徹、榊原郁恵のじゃないよ)
そのあと釈迦堂遺跡博物館を訪ねました。
珍しく正月の2日からやっていました。えらい。
この辺りは中央道の建設中におびただしい遺跡が発見されたのです。
それにしてもここから見る南アルプスから秩父までの山並みのパノラマは素晴らしい。
他県の人は山梨から富士山を見るのがいいと思うらしいけど、すごいのは反対側なんだよね。
だから古代人もこの辺に住んだのはよく納得できる。
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観光業についてもう一言。
これまでの観光業を外から見ると力の入れ方が間違っているのでは?と思うことがあります。
海外からのお客さんと2~3泊以上滞在してもらうお客さんを増やす施策を、と書きました。
さらに、リピートしてもらうように考えるべき。
逆に言うと、日帰りで1回こっきりの日本のお客さんは放っておいてよいと断言します。
これまでは、こういう人ばかりターゲットにしていませんでしたか?
これは簡単な努力で確実に増えますが、間違いなくお金を落とさないお客さんです。
それに比べて外国人、滞在者、リピーターを満足させるには面倒です。
これは従来の観光業のイメージではなくホスピタリティを提供する高度なサービス業だからです。
ニセのサービスではすぐバレてしまいます。
しかもできる業者とできない多くの業者がくっきり分かれてしまいます。
評判やブランドという目にみえないものを構築する必要があります。
これにはコストも掛かりますし維持も大変です。
でもこれをやらない限り生き残りは難しいと思います。
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連休の中日というわけで下町散策に行きました。
まず、月島から佃島に向かいました。
初めてかも。
いいねえ。
路地がいくつもある。通れる。
路地の中に地蔵尊がある。香港の路地みたい。
摂津(大阪)の佃村の漁民33人が江戸に移って住んだ人工島ですが。
本能寺の変の際、家康は住吉大社へ参拝の名目で向かい岡崎へ逃げた、そのとき佃村(田蓑村)の漁民に助けられたエピソードが伝わります。
その恩返しに家康から漁業の特権をもらいました。
門前仲町へ向かいました。
うーんここは久しぶりに来ましたが、こんなにお店があったかなあ。
深川不動尊は門前がにぎやかでした。
富岡八幡宮では横綱力士碑があって「超五十連勝力士碑」があって双葉山、千代の富士などの名前がありました。
大関の碑もあって「巨人力士身長碑」という碑もありました。
伊能忠敬の像もあり。
門前仲町から清澄白河に向かって歩きました。
隅田川の方へ曲がると、北の海部屋、大鵬部屋、尾車部屋などがあります。
萬年橋を渡ると、清洲端が「ケルン橋」のように綺麗に見えるポイントがありました。
この川が小名木川ですが、これは人口の川で行徳の塩を運ぶためにつくられました。
それだけでなく、利根川から関宿を江戸川を下った各地の物産はこの川を通って隅田川に入って日本橋に届きました。
ですから川船番所がありました。
この近くには芭蕉庵の庭園、稲荷、芭蕉記念館があります。
松尾芭蕉はここに住んで各地を回りました。
平賀源内のエレキテル実験場所、セメント工業発祥の地、滝沢馬琴誕生の地など盛りだくさんのコースです。
東京のリバーサイドはもっと注目されてもいいと思う。
佐賀町カフェ(食料ビルディング)が無くなってしまったのは惜しい。
それでもちょっとおしゃれぽいお店もチラホラ。
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この連休は「蔵の街かど映画祭」というイベントでした。
関東の倉敷と言われるほど古い蔵が多いのですが、それをミニシアターにして同時開催するのです。
そこここに「映蔵」というマークがあってそこで上映しています。
東京からは東武で行きます。
駅前は何もありません。古いまちにありがちな駅と街の中心が離れているのです。
商店街は笑ってしまうほど寂れています。というかむかしのまま残ってしまったという感じです。
川にはでかい鯉が泳いでいます。
ちなみに山口智子の実家は老舗旅館「ホテル鯉保(こいやす)」という名前でしたが2005年に120年で廃業しています。
江戸からの舟運で栄えた商人のまちです。
日光東照宮への資材運搬などです。
江戸川、利根川、渡良瀬川から巴波川(うずまがわ)の河岸に陸揚げされました。
朝廷から日光への例幣使街道の宿場町としても賑わったそうです。
栃木県の県庁は宇都宮ですが、明治4年(1871年)廃藩置県当時は栃木市が県庁所在地の栃木県と宇都宮県に分かれていました。しかも上野国(群馬)の3郡も含まれていました。
その後、1873年に宇都宮県を合併し1876年上野3郡は熊谷県といっしょに群馬県になりましたが、まだ県庁はありました。1884年に宇都宮に移されました。
つまり1871年~1884年までは県庁所在地だったのです。
幕末の大火でほとんど消失したため蔵造りが発達しました。
川越みたいでそんなに古くないということになります。
川越と佐原と蔵サミットをやっています。
きっと1900年前後に栄えたお家なのでしょう。
今も岡田姓の方々が住んでいるようでした。
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僕もバッグをいろいろ持っています。
ビジネス、ショルダー、セカンド、リュック、パソコン、ヒップ、ウェスト、トランク、キャスター付き、スポーツ、マリンスポーツ、トレッキング・・・
あまりこだわりのある性格ではないし、ブランドもそれほど関心がありません。
でも不満ではなのですが、大満足しているものはほとんどありません。
特に日常よく使うものにはアラを感じます。
まず重さ。皮製は重い。
雨が降って、自分よりカバンを守った理不尽さ。
収納の少なさ。
取り出しにくさ。
キズがつきやすくて気になる
壊れて修理が高い・・・
それにしても思うのはカバンも進化しなくてはいけないのでは、ということ。
特にここ最近のライフスタイルというか持ち物の変化は大きく、18世紀のカバンとは絶対違ってしかるべきと思うのです。
不満の第一はこの点でしょう。
僕の場合、ペットボトルをどうするかが問題になります。
ケイタイや携帯音楽プレーヤーなど電子機器もあります。
濡れた折り畳みカサを持ち続けるのはどうにかなんないか。
文庫や新書などをちょっとした時間で読みたい。
僕の場合、デジカメもすぐ取り出したい。
そこで少なくともペットボトルと折り畳みカサが入るポケットがあるカバンを探しました。
あとの条件は、
ノートパソコンが入って、周辺機器も入って衝撃から保護されるやつで。
雨に濡れても大丈夫で。
軽い。
あった、なんとパソコン周辺の会社が作っていました。
たしかにおしゃれとはいいがたい。実用性のみ。
これが快適。他は使わなくなった。
これ以外で、この条件に当てはまるリュックやショルダーもあるようです。
特に小さなメーカーの中にはこういう機能性とデザイン性に挑戦しているところもあるようです。
きっとこういう不満やニーズが高いのでしょう。
カバン屋さんも知っているくせに。デザイン性を高めるのに自信がないのかも。
エールのつもりで、こういう機能だけで選ぶことにしました。
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温泉ブームで日帰りの公営温泉がたくさんできました。
民業圧迫ではないかと心配になります。
山梨でも「みたまの湯」などTVで紹介されるほどです。
むかしは湯の質がいいとか悪いとか温泉場の評価や人気が決まることが多かったと思います。
でもほったらかしの湯以来、絶景の露天風呂でないとダメです。
つまり、お湯の質よりロケーションなんです。
ボーリング技術の発達でどこからでも出るようになったので、どこに造るか選択肢は増えました。
御坂町はかなり西側の平地につくりましたが、博物館との一体として考えたのでしょう。
石和町は鵜飼橋の東で温泉街とは離れています。政治的なものがあったのかもしれません。
一宮町は初期の人気温泉で高台からのロケーションがいいと思いました。
さて八代町もどこに掘るのかで揉めました。
でもロケーションを考えると「ふるさと公園」近くの一体開発がいいと思います。
前に、甲府盆地のどこに住めば富士山が良く見えるか探したことがあります。
でも、南アルプスや八ヶ岳が見える盆地東側から南側(勝沼から三珠)のロケーションは最高という結論に達しました。
富士山は見えないけど。
その地に住んだ祖先はえらい、と。
そういえば「みたまの湯」に出ていた五月みどりさんは、バブルの少し前に八代町役場に訪れ、あの山を買いたいとおっしゃったそうです。
あの辺、まだ未練があるのかも。
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甲府盆地の東側の地域、笛吹市、山梨市、甲州市(峡東地方と呼ばれた)、大月市などを車で走っていると甲州独特の民家を見るはずです。
赤いトタン(瓦、銅板などもあり)で覆われている角度のある切妻式の屋根で、屋根の真ん中あたりに屋根が突き上げ2段式に出っ張っている大きな民家です。
突き上げ屋根の部分は2階、3階の通風や採光の窓になっていておそらく養蚕に使われていたのではないかと思います。
塩山あたりでは秋に古露柿(干し柿)が吊るされていることもあっていい風情を醸し出しています。
養蚕農家は上州、八王子、信州などにもありますが、この造りは山梨県東部だけだそうです。
群馬県六合村の赤岩重要伝統的建造物群保存地区も養蚕農家を中心にしていますが、建物は甲州のものと違っています。
赤いトタンの下は茅葺になっています。戦後はトタンで覆われました。
僕は「甲州茅葺突上げ切妻造り」と名づけましたが、「甲州独特の切妻式民家」「甲州突き出し屋根」「切り妻出窓屋根様式」「峡東の茅葺切妻造民家」とも表現されていますが、正式な呼び名はないようです。
切妻造が建築群をなしている地域もあります。
たとえば甲州市塩山で塩山駅から国道411(青梅街道)を大菩薩や柳沢峠方面へ向かう途中の左側にある上条地区です。シェルやモービルのスタンドの辺りを山側へ入ります。住所は下小田原になります。
金井加里神社、福蔵院、公会堂のお堂には木喰上人白道の百体仏などもあります。関係ないけど福蔵院は元サッカー全日本コーチ清雲栄純氏の実家です。
切妻造の民家が14あり、築300年の民家もあります。
黒川金山の金山衆の集落ではないかとも言われています。
平成13年に(財)都市農山漁村交流活性化機構が行った「茅葺き民家に関する調査研究」により、その保存のよさが全国に知られることになりました。
日本ナショナルトラスト協会が調査に訪れたそうです。報告書「上条地区の切妻民家群」平成16年度観光資源保護調査は、有料で2000円。
これには、まちづくりグループ「がんばろう塩山」の有志ががんばっています。
山梨フィルムコミッションのロケ地にもなっているので、映画撮影などもどうぞ。
道祖神プロジェクトというHPには養蚕業との関連か書いてあるので引用させていただくと、
『その背景として、山梨の道祖神場では、「蚕影山」と刻まれた養蚕神を祀るところが多いことがあげられる。山梨では、古来農民の現金収入を支えたものが養蚕であった。養蚕は蚕を飼い、生糸を産出する。昭和40年代までの山梨の農家の暮らしは、春の麦の収穫、田植えが終わると、夏蚕が始まり、初秋蚕、晩秋蚕と三度の養蚕をこなし、そして稲刈り、麦の播種が終わって、農閑期となる。その中で、なんと云っても現金収入の柱は養蚕だった。(11月に開く甲府最大のお祭り「えびす講祭り」は、そうした、懐に金がたまった農民たちが、家族連れで買い物、食事を楽しむハレの場であった。)
ことに、甲府盆地東部の峡東地方の農家は、江戸時代中期以降こぞって養蚕を生業としたものである。峡東地方の民家の特色である「切り妻出窓屋根様式」(塩山市駅前の甘草屋敷の建築様式)は、自宅を養蚕のために最適化した例である。峡東の農家は、他の地域に比べ、一様に大きな家を構え、養蚕の現金収入の実入りの大きさを物語っている。このため、その年の養蚕の成果が農家の暮らしに与える影響も大きく、地域の繁栄を守ってくれる道祖神に養蚕の神様である蚕影山を併祀したのも当然といえよう。
この山梨の養蚕は、明治期には製糸業とともに、山梨の経済発展の原動力となった。明治初期、山梨の生糸を天秤棒でかついで、笹子、小仏峠を踏破し、横浜港での貿易で巨利を得た山梨県人たちは、東京に進出して、電力、鉄道等基幹産業を牛耳り、「甲州財閥」と呼ばれたこともある。このことは、地域の記憶として永遠に語り継がれるべきものである。
山梨における養蚕業は、昭和50年代急激に衰退し、山梨県養蚕連合会の解散とともに、数百年に及ぶ山梨での産業史の幕を閉じてしまった。年にたった一度、道祖神祭のときだけ各戸で作られる繭玉団子。たかが繭玉団子であるが、今やわれわれの地域から喪われた養蚕の歴史を思い出させてくれる唯一の貴重な証しとなってしまった』
もう一ヶ所忘れてはならないのは笛吹市の編入された芦川村のかぶと造の建物群です。
ここは石垣が積み上げられた斜面に、段々畑と兜(かぶと)造りの民家が連坦しています。
茅葺ですがほとんどくすんだ赤色のトタンで覆われています。
これらの街並みは、僕の好きな「連坦性」であって、よくぞ残っていた、残って欲しい、というものです。
1つだけ古い建物が残っていてもしょうがないわけです。
もちろん重要伝統的建造物群に指定されればそれにこしたことはないですが、住民すらその良さに気づいていないかもしれません。
こうした連坦性をたずねたすごいHP「古い町並み」を紹介します。先人はいるものです。
さて昨日の新聞に、日本ナショナルトラスト協会は今年から協会独自に土地の寄贈受け入れや買取を始めることを発表したとあります。これまでは各地の活動団体の支援に留まっていました。
僕は山梨で2地区推薦します。
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飯田龍太氏が亡くなったときのエピソードに
「田も作り詩も作ろう」の立て看板の話がありました。(3月2日参照)
笛吹市八代町に存在するものです。
今回の帰省でいくつか発見したので報告します。
特に探したわけでなく偶然です。
まず、いわゆる農免道路で高家南の交差点(八代戸田内科の近く)です。
ここでじっくり観察してみました。
僕が小学生のとき、すなわち30年以上前からあるはずですが、ちゃんと綺麗に立っています。修復の跡は見られません。
他の2面には、
「みんなで手をつないで輪になろう」
「平和は一人一人の心の中にある」
と書いてあります。
次は米倉地区の集落センター前で発見。
僕はこれを想像していました。でも場所はちょっと違っていました。
同じ筆跡なのでプリントしたのでしょう。
写真は無いけど市役所の八代支所(旧八代町役場)の前にもありました。
この調子だと町内の各地区に一つづつはありそうです。
全部で20弱はありそう。
どれも綺麗に残っています。まさかと思うが新しくしているんじゃないよね。
この標語は公募されたとは思いますし、これはこれで良いとは思いますが、それにしても何のために立てたのでしょうか?
労力とコストを考慮して、他にやることは考え付かなかったのでしょうか?
それともオリエンテーリングか何かに使うつもりだったのかなあ。
何しろ全国で有名なんですから、その意図も探らねば。
今度、聞いてみようっと。
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毎年お盆の時期になると山村を訪ねます。
訪ねますといっても車で通るだけですが。
今年も、市川大門の藤田や旧甲州街道の犬目宿と野田尻宿を通りました。
普段はお年寄りの多い地区や静かな過疎の村だったりするのですが、この時期は親戚や子供が帰ってくるのでしょうか、にぎやかです。
坂道や家の前に車が何台も横付けされています。
唯一の平地である道路でボール遊びや縄跳びしている光景が見られます。
外に出て花火したりお盆の送り火やっていたり。
10年ほど前に、下部温泉の湯之奥地区の敷石を歩いていたときこの地区の出身者だと思われて会釈されたのがお盆体験の最初でよく覚えています。
次は芦川村鶯宿の兜造りの家の前の道に県外の車が何台も並んでいる光景を見たのも強烈な印象です。
お盆で村がワクワクしている感じがします。
よく考えるとただの田舎とか山村ではなくて地区の古い街並みがいい感じなのかもしれません。
それから真夏なので標高が高いところに行きたくなるのと、日が長いのでいい瞬間の発見の確率が高いのかもしれません。
真冬だったら行かないもんね。
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甲州街道を走ってみようと思った。
目的地は犬目宿と野田尻宿。
国道20号からちょっと外れた旧道を見逃さないように行くことにしました。
今回は笹子峠は使わず新笹子トンネルへ。
まず笹子の白野宿。
ここは中央線や中央道から赤いトタン屋根が連坦する街道筋が見えて気になっていました。
上から撮りたいと思って街を抜けたあたりから中央線沿いの高台に登って撮りました。 いいでしょ。
すかいらーくの手前。
味噌蔵もあって実際に味噌屋さんもやっているよう。
大月駅を越えた駒橋のところに左に入る道がくさい。
猿橋を通り抜けて鳥沢駅を過ぎたら左の道を上ります。こっちが本当の甲州街道です。
この辺りが北斎の冨嶽三十六景の犬目峠の場所だと思う。
この手前の杉林の中には石畳の道も残されています。
この辺りにくると視界は急に開けて来て下に山々や遠くに富士山も見える絶景になります。
ここから一旦、中央道を渡って談合坂SAの辺りでもう一度中央道を渡ると野田尻宿です。
交番前の看板ではこのまま宿を進めば鶴川宿にいけるようです。ところが僕の地図では北側を進む甲東地区あたりが野田尻のように書いてあったので混乱しました。
看板通り進むと中央道に渡り南側に出て、ゴルフ場の間を走っていきます。本当はこの道が正解で、これが旧甲州街道でこのまま進んでもう一度中央道を渡ると鶴川宿です。
でも僕は30号の甲東から行きました。
ちょっと高台から振り向くと鶴川宿が良く見えます。
ここから上野原宿、関野宿、吉野宿と行きたかったのですが時間がないので帰ることにしました。
石和の「なごみの湯」に入って帰りました。甲府商業の試合中だったので空いているとふんだわけです。もちろん独占でした。こんな日にほったらかしの湯に行ってはいけません。
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そのほか、風林火山の孫子の旗、諏訪神号旗などもあります。
大菩薩への登山道を通って一昨日行った大和村へ抜けることができます。
武田勝頼が織田軍に天目山で負けたとき家臣がこの寺に隠したのです。
大菩薩峠といえば中山介山の小説ですが、近くに記念館があります。
青梅街道は甲州街道の裏街道でした。
現在は柳沢峠を越えて丹波山村を通るコースですが江戸時代まではこの峠を越えていました。
大菩薩嶺は2057mですが峠は1897mです。あんまり変わらない。
この峠は最大の難所でした。小菅村に抜け国道139号が旧青梅街道(小菅みち)と丹波山村に抜ける国道411号に別れて奥多摩湖で合流しています。
1878年(明治11年)藤村県令によって柳沢峠に変わりました。
今では富士山がきれいに見えるハイキング・コースとして人気です。
長兵衛小屋、介山荘、福ちゃん荘など山小屋もいくつかあります。
有名なのは1969年の大菩薩峠事件。
テロの軍事訓練を計画していた赤軍派の53名が福ちゃん荘で逮捕されました。
雲峰寺の宝物殿は13時に開くのを待って見学しました。
その後は大菩薩ラインを下って塩山駅のほうへ向かいました。
途中、樋口一葉の両親の家、千野学校跡(洋風建築)、千野館、馬場街道、下街道、大獄山の碑などを発見しました。
最近の塩山の歴史を発掘する努力はたいしたものです。若い人ががんばっているのかなあ。
塩山が生んだ著名人といえば雨宮敬次郎です。
新しい碑も建てられていました。
そこには雨敬園という観光ぶどう園の看板があります。
そこで訪ねてみることにしました。
そこはまさしく雨宮敬次郎の生家でした。
雨敬の子孫ではなくご親戚のご子孫が経営していました。
伊藤博文が訪れた部屋も残されていて見せてもらいました。
次にぶどう酒寺として有名な大善寺に行きましたが、込んでいて駐車料金が要るようなので帰りました。
隣にある近藤勇の古戦場跡の碑は見逃してしまいました。
甲陽鎮撫隊が「甲州勝沼の戦い」で新政府軍に敗れた場所です。
一昨日見逃した大和村の景徳院に行きました。
自害した石とか最後に日の丸を巻いた木とかも生々しく残っています。
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今日は大山ケーブルカーに乗りたいと思って出かけました。
小田急線の伊勢原駅からバスでいきます。
さすが土日の運行本数のほうが多い。
伊勢原駅までにすでに山門が立っています。
やはり門前町なんだなと実感します。
思ったより狭い田舎の道を登ります。
バス停から歩いてケーブルカーの追分駅まで登ります。
意外に階段がきつい。
途中はみやげもの屋などがあります。採れた野菜なども無人で売っています。
宿坊には「先導師」と書かれています。
御師が明治6年の神仏分離令で先導師と呼ばれるようになったとのことです。
ケーブルカーは20分おきです。
そうは言っても駅は3つですのですぐに終点の下社駅に到着。
アナウンスで大山阿夫利神社ってなんと10代崇神天皇が紀元前97年に創建と聞いて耳を疑う。本当?
世田谷のも大山街道がありますが、講があってのでしょうね。
そこから阿夫利神社の下社まで登ります。
看板を読むと大山は別名「雨降山(あぶりやま)」だそうです。雨乞いしたんだろうね。
そこから大山の山頂にある本社まで1時間以上かけて登るのですが、急な石階段横の山道を左に行きます。
蓑毛峠の看板が無いので神社の人に確認。
すぐ本社へ行く道と分かれますが左へ。「蓑毛みち」です。
でも両側を見るとすごい崖です。もし落ちたら死ぬと思います。
時々道の山側や上のほうを見ると石がちゃんと積んであってコケが覆っています。やっぱり古道ですね。
小さい子供の足に合わせてゆっくりだったのですが、問題なく30分くらいで峠に到着。
峠は4方向に分かれますが、蓑毛バス停のほうへ。
今度は下りですがすべりやすい。
これまで3組しか会いませんでした。やはりもの好きなのでしょうか。
一度足をひねってしまい「やっちゃたあ」と思いましたがなんとか歩いて降りました。
もし骨折でもしていたらと思うとぞっとしました。
大山で遭難なんてシャレになりません。(最近ありましたね)
蓑毛は集落がいい感じと聞いていたのでバスに乗らず降りようと思ったのですが、足も痛いしちょうどバスが来たので乗って帰りました。
歩いたのは1時間くらいでした。
低学年の子供連れにはちょうどいいコースではないでしょうか。
でも蓑毛側から登るのはもっと大変かも。
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つげ義春は湯治場や宿場が好きだそうです。
寂れた山間の鉱泉とか鄙びた集落とか。
僕の好みに似ています。
今、つげの「貧困旅行記」(新潮社版の新版)を「そうそう」という感じで読んでいます。
秋田の八森のボロ宿とか上州湯宿とか読むとわざわざ絶望感を感じに旅しているのがよくわかります。
僕の場合もう少しキレイなほうがいいですけど。
山梨も多くて、上野原の犬目、大和村の日川、下部、秋山村なども登場します。
犬目がずーっと気になっていたのです。
「一個人」という雑誌の創刊号だったか、つげの犬目の猫町の記事を立ち読みして、その地名だけを覚えていました。
その雑誌をもう一度読みたいのですが見つかりません。
その中だったか、お面を被った少女が写っている写真と山間にあるボロい鉱泉の古い写真を強烈に覚えています。
文庫本で見つけてうれしくなりました。福島の柳西山温泉のようです。
写真がいい。
1970年前後ですが古い感じです。
僕も写真を撮っておこうかなと思います。
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本屋さんで廃線跡とかの本を見ていたらサハリン鉄道の旅のような本を見つけました。
走っている鉄道もバラエティに富んでいて興味深いものでした。
地球の歩き方にも「シベリア&シベリア鉄道とサハリン」というのもあります。
地図も日本名の地名もあって、「あー日本人が住んでいたんだなあ。」と思っていまいます。
北海道拓殖銀行の豊原支店とか。今のユジノサハリンスクだけど。樺太庁のあった大泊は現在のコルサコフとかね。
岡田嘉子は杉本良吉と南樺太から北樺太へ逃げています。
間宮林蔵は実際に生活していたらしい。
樺太生まれというと、大鵬親方、輪島功一、若山弦蔵、せんだみつお、富士メガネの社長本間正明(大阪大)さんなどがいらっしゃいます。
「樺太生まれ」で検索するとたくさん出てきます。
45年8月28日に占領、46年2月2日にソ連が南樺太と千島列島の領有を宣言して、日本は51年のサンフランシスコ講和条約に領土権を放棄しているのです。
ただし、ソ連はその条約に参加していないので、日本は帰属未定としている。
ソ連の領有以後は帰ってくることは自由だったのでしょうか?
たとえば、せんださんは1947年樺太生まれとなっていますが、その時期まで居ることができたのでしょうか。
最近、佐藤優著「自壊する帝国」を読んで、ロシアに興味を持ちました。
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今朝の新聞に、「パンクの聖地が閉鎖」という小さな記事。
それはニューヨークにあるCBGB。
15日にパティ・スミスがライブをやったらしい。それで10月いっぱいで閉鎖。
70年代にテレヴィジョン、ラモーンズが拠点としたと書いてありました。
懐かしいね。トム・ヴァーレイン、故ジョーイ・ラモーン。
ニューヨーク・パンク・シーンも熱かったね。おしゃれだった。
トーキング・ヘッズ、ブロンディ、ベルベット・アンダーグラウンド&ニコね。
ニューヨーク・ドールズはあのマルコム・マクラレンがマネージャーだったよね。
故ジョニー・サンダーズ&ザ・ハートブレーカーズ、シルヴェイン・シルヴェイン。デビッド・ヨハンセン・・・
別の記事によると、デボラ・ハリー、トーキング・ヘッズのクリス、ティナ(トムトム・クラブね)で5日にライブがあったとのこと。
移転の原因はダウンタウンの家賃の高騰らしい。
1973年開店だから33年間入居したってこと。
大家さんもいいかげん出て行って欲しいと思うよ。建て替えたいね。
うちの山梨の実家のお店も73年開店だったけどあれからたった33年?
やっぱり30年もやるお店ってありそうで無いと思うな。
うちは23年くらいでアウト。
僕は約19年前の1988年1月にCBGBに行きました。
全体が暗いのですがトイレはもっと暗くて落書きいっぱいでした。
やっぱり、パンクだなあと思いました。
場所も回りに観光スポットなど無いところでしたが、最近は音楽系のスポットが多くなったらしい。
昔だね。
なんたって伝説のSTUDIO54とかも行ったもんね。
磯崎新の造った。
映画「54」も観たよ。
今も54あるのか?
(あるらしい。宮本亜門がやるらしい。)
調べていたら、グランド・ゼロって槙文彦がやるんだって?
僕が横浜にあるビルの再開発の仕事をやったとき、設計は槙さんだった。
事務所にも行ったことがある。
あっちは僕の事など全く知らないと思うけど。
WTCが日系のミノル・ヤマサキだったからかなあ。
話はライブハウスへ戻る。
ロフトとか下北のロック・バーのようなところもCBGBの影響は受けていると思う。
でも、70年代にいかなきゃね。
どんなに遅くとも84年までに行かなきゃいけなかった。
だって、それ以降は完全ブラックでしょ。
NYに行ったときもロックなんて無かった。
ロックは完全に死んだね。
ロンドンのマーキーや100クラブも間に合わなかった。
変なカントリーとかやってて「何これ?」って感じでした。
ライブハウスよりクラブの時代だったね。
日本ですらピテカンとかクラブDが始まっていたもん。
こういうのいつも遅れるんだよ。
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