2010年8月30日 (月)

GHQに押しつけられた振りをして・・・

終戦後の大きな改革があります。

農地改革、労働組合法、選挙法・・・

実はこれらはGHQから指令されたものではありません。

実は、戦前から改革がやりたかった。

それで終戦を期に頭のいい官僚が進めました。

GHQの意向だと威光を使って。

6・3・3式の教育システム、シャウプ税制の源泉徴収システムなどもそうらしい。

これを「先取り改革」と称したのは、

五百旗頭真著「日米戦争と戦後日本」(講談社学術文庫)

8月の最後に読み終わりました。

面白かったです。

それによると逆にGHQが強く指令したものもあります。

財閥解体、独占禁止法、過度経済力集中排除法です。

微妙な中間的なとしては、内務省解体、地方自治法といった中央集権的なものだそう。

さらに憲法改正も。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月30日 (金)

ちゃんと並べ!

近所の盆踊りに行きました。

屋台が出ていたので買おうと思いました。

ふと見るとお店の3m先に1人の女性がぼーっと立っている。

40歳くらいのお母さん。

「もしかして並んでますか?」と聞くと、

「そうですが」と、

何なんだその「が」って。

「見りゃわかるだろう。それが?」ってヤナ感じ。

並んでるんだったらちゃんと並べ。

次の人が困るし、後ろの人がじゃまだろ!

それが昔から日本のルールじゃあ。

なんか文句あって離れてるんかい?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月12日 (土)

海外で最初の将棋

また小さな記事から。

日本将棋連盟のHPによると威臨丸の使節団が現地で将棋を指した記事が発見されたとのこと。

当時のニューヨーク・タイムズ紙。

1860年6月16日付。

サムライ姿で15日にフィラデルフィアで披露したらしい。

かなりの早い指しで驚かれた。

見つけたのは将棋ファンの米国人。

それにしてもこんな記事が今頃発見されたことに驚く。

想像すれば簡単に見つけられると思う。

日本将棋連盟何をやっていたのかと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年2月12日 (金)

国母選手の服と伊藤会長はどっちが異様?

スノーボードの国母和宏が服装の乱れを指摘されました。

伊藤会長は、国母の服装については「異様だった。気に入らない」と怒りをあらわにした、とさ。

何がいけないの?

シャツなんてパンツの中に入れない。

ドレッドに鼻ピアス。いいじゃない。

スノーボーダーがまじめじゃツマンナイでしょ。

国民の税金が聞いてあきれる。

仕分けが怖いからポーズとっているとしか思えない。伊藤義郎会長(83!)

勝てばいい。

爺のセンスじゃわかんないか。(83!)

まさか品格とか言い出すのか?

ロス・オリンピック(1984年)の開会式で一糸乱れず固く整列して出てきて笑われたのはどの国だあ?

反省して次の大会からはリラックスするようにダラダラ入場するようになったニッポン。

伊藤義郎会長(83)=伊藤組土建名誉会長 

だいたいスキー連盟なんて会長含む理事のデタラメ改選で1月27日の判決で地位が全員否定されいる。

役員資格は70歳未満なのに会長・副会長はオーバー80。

伊藤土建はオーバー100人のリストラで経営再建中。

こっちのほうが異様だと思う。

国母もっとやれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年5月26日 (火)

ジーザス・キャンプが観たい

映画「ジーザス・キャンプ」を観たい。

アメリカの福音派のドキュメンタリー。

2006年の。

このキャンプは、子どもにキリスト教原理主義の教えを叩き込むプログラム。

もちろん中西部の保守派。

怖い。

まあブッシュ時代に観たかったが。

ちょっと遅い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月26日 (木)

カワイの肝油

むかしの「探偵!ナイトスクープ」を見てたら、カワイの肝油ドロップの缶についてやっていました。

黄色い丸型の缶にある白黒の子供の写真がトミーズ雅に似ているというだけなんですが。

その子供の行方を探しにいって似ている大人になっているか。

古参の営業マンの方の記憶を頼りに。

結局、銀座にある育ちの良さそうな方で、トミーズ雅とは全然似ていませんでした。

肝油とは、タラなどの魚の肝臓の部分をしぼり、その油を凝縮したものだそうです

てっきりクジラだと思っていました。

小学校のときに夏休みに大量に買った思い出があります。

古い会社で1911年から売っているようです。

それで河合製薬という会社が木造の歴史ありそうな(というかボロい)建物で興味を持ちました。

中野にあるみたいですが、今は立派なビルになっているようです。

ナイトスクープは1992年頃の再放送でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月22日 (月)

大多喜町メキシコ通りの命名

昨日大多喜について書きました。

そしたら今日の日経新聞の文化欄にちょうどメキシコと房総の友好史について書いてありました。

御宿にある「日西墨三国交通発祥記念之碑」。

1609年(慶長4年)にサン・フランシスコ号というフィリピンからメキシコを目指していたスペイン船が座礁したそうです。

地元の漁民に手厚く介抱されました。

ドン・ロドリゴの書いた「日本見聞録」などに残っています。

一行は領主である大多喜城主の本多忠朝に預けられました。

ちなみにロドリゴ記録に大多喜城の天守閣の記述はないそう。大多喜城は昭和50年に再建されました。

それで将軍秀忠、家康とも会ったそうです。

この件は忘れられていたのですが、岩倉使節団が訪問先で知らされたのです。

メキシコ通りのタイルは、昭和53年にメキシコ大統領の公式訪問のときにできました。

難破船を助けた話は、1854年安政東海地震のディアナ号、1890年の串本町でのトルコ(オスマン帝国)エルトゥールル号の遭難事件を思い出しますね。

そういえば1873年の宮古島でのドイツ船ロベルトソン号もありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 8日 (月)

中央線の鉄道忌避伝説は全てウソだった

関東の鉄道めぐりをやっていると、駅前と繁華街が遠いことがある。

特に古い街ほどそうです。

佐原、古河、佐倉、桐生、水戸、土浦、関内、野田・・・

どこも遠かった。

こういう現象の解釈として「鉄道忌避伝説」があります。

ここで言う伝説の定義とは、鉄道が敷き始められた明治期に、

「宿場や舟運が寂れるとして反対が起こりわざと遠くに駅をつくった」

「煤煙で桑や果樹が枯れると反対があった」

「若者が堕落すると保守的な長老たちが反対した」

つまり文明開化からそう年月も経っていない田舎の人は蒸気機関への無知から起こる反対運動があった。

その結果、鉄道が通ってその後繁栄した先見性がある街とそうでない衰退した街に分かれた。

このような伝承説のことです。

もちろん今でも道路や鉄道でも反対する人はいますが、ここでは無知とか遅れた保守的な考えという点がポイントです。

有名なのは中央線が中野から立川まで直線で甲州街道の調布や府中、青梅街道を通っていないこと。

東海道線が岡崎を通らず蒲郡を通ったのは誘致運動によるとか。

中央線の山梨でも塩山に大きく曲がっているのは雨宮敬次郎の実家の前を通ったとか一宮の桑畑のため反対運動があったとか。

全国にいろいろな話が残っていて、鉄道本にもそうした歴史が書いてあります。

青木栄一著「鉄道忌避伝説の謎」(吉川弘文館2006年)はこうした俗説、伝承、伝説はウソであることを丹念に解きます。

青木氏は地理学の理学博士で東京学芸大学の名誉教授です。

ルートの決定はほとんどの場合、高低差、川や山、など地形や地質の自然条件で決まっているとします。

当時の技術ではそうせざるを得なかったのです。

ではどうしてこういう説がまことしやかに浸透したのでしょうか。

著者はその原因まで探ります。

その原因は鉄道にうとい執筆者による曖昧な表現を含んだ地方誌があります。

この情報が伝聞や2次引用されて広がったことを指摘します。

それから1960年代以降に使われ始めた小学校の副読本によって子どもたちに正しい知識として広めたことを突き止めます。

僕たちの年代は「学校で習った」ことを信じているわけです。

甲府盆地で右に大きく曲がるのは25パーミル以内で抑えるためにはそういうルートしかないわけです。

もし左側の一宮の山沿いを下りる場合には大きな橋が必要です。

この辺は「日本鉄道史(中編 135~137)に説明があるとのことです。

他の検討ルートとしては谷村・吉田+御坂峠もありましたが長すぎました。

笹子峠を碓氷峠のようなアプト式ラックレールで越えて御坂を通るルートもありましたが採用されませんでした。

それから八王子から小仏ではなく、橋本経由の検討もありました。

結局、小仏と笹子に大トンネルをつくる案が採用されました。

笹子トンネルは清水トンネルができる1931年まで日本最長でした。

谷村の鉄道忌避伝説や塩山の雨宮迂回説、一宮桑畑説は事実ではないとします。

また、上野原駅が街中より下にあるのは河岸段丘のルート選択としてここしかないと説明しています。

これは佐倉や伊賀上野も同じ理由だそうです。

それにしても古い街が形成されている場合、その後に鉄道を敷くことになると当然街中を通すわけにはいきません。

買収やら補償を考えれば近くの田畑を通すのはあたりまえ。

ですから僕が体験した関東の古い街で駅や線路が遠いのは当然です。鉄道ができる前に完成していた街と鉄道が通ったことで街ができた赤羽のような街は違ってくるわけです。

鉄道という文明のインフラが来ること自体に反対はなく、ましてや新橋から数十年も経って無知からくる反対などあるはずがありません。

宿屋や舟運なども時代の運命とあきらめ、時間をかけて消えたと考えるのが普通でしょう。

もちろん反対運動が全くなかったと言っているわけではありません。

田圃の水路に影響したり橋や洪水などを理由にした反対運動はあったようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月27日 (水)

ていぱーくで甲州財閥に出会う

板橋宿のあと大手町にある逓信総合博物館ていぱーくに寄りました。

気になっていたので。

旧郵政省の博物館なので電話、郵便、テレビ、ラジオなどの展示です。Dscn1241_2

どれも面白かった。

電話が普及しはじめた頃の電話帳がありました。

これに見入ってしまいました。

57番浅野総一郎。

159番大倉喜八郎。

160番岩崎彌三郎。

173番渋沢喜作。

177番大隈重信。

248番前島密。

253番小野金六。

260番雨宮敬次郎。

横浜18番若尾幾造。

などなど。

甲州財閥は最新の通信手段も活発に活用していたのですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月28日 (水)

伝書鳩を忘れていませんか?

伝書鳩ってどうだっけ?と2冊ほど読みました。

黒岩比佐子著「伝書鳩 もうひとつのIT」(文春新書142)

古くから通信に使われた帰巣本能。

江戸時代のコメ相場で旗振りが使われたことを書きましたが、伝書鳩も考えられます。

1783年(天明3年)3月4日付け「大坂町奉行触書」で相模屋又市という大坂のコメ商人が鳩を使ったとして捕まったとあります。

卑怯なマネだったということでしょう。

長崎のオランダ商人から買ったようです。

有名なのはロスチャイルド家がナポレオンのワーテルローでの敗北を知り巨万の富を得ました。

日本では軍用や新聞社のスクープなどに使われて1954年頃まで各新聞社で飼われていたそうです。

19世紀のヨーロッパでは通信用とレース用の鳩が盛んに研究されました。特にベルギーはレース用に取り組んでいます。

日本では1960年代の後半にレース鳩がブームになりました。

実際、僕は1968年頃に鳩を飼っていました。

大工さんに鳩小屋を造ってもらい、小学校の先生に何匹か貰ったのです。

今となってはすっかり忘れていました。

この頃の話は、吉田和明著「三億円事件と伝書鳩 1968-69」社会評論社

副題が「伝書鳩による錬金術。 三越でも鳩が売られていた。 東京・府中の三億円事件の犯人と名のり出た男が起こした一大詐欺鳩レース。そのトリックの真相に迫る。」

読みたくなるでしょう。

なんか日本がどうかしちゃっていた時代。

当時の少年たちが「ニビキ」とか鳩の種類を言っていたのが「二引き」だとわかりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧